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たいしたことじゃないね、って言われて、お焚き上げされた傷の話

ナナシノユキサン、何を隠そう、ポッドキャストOver The Sunのリスナーである。すぐには聞かないで、週一回の気がおもーいオフィス勤務の木曜日まで取っておいて、帰り道、電車を使わず、ドイツの森を歩く1時間の楽しみなのだ。

いつも唐突に思いつきのお便りテーマが発表されると、「ふーむ。ナナシノユキサンなら何て送ろうかしら」と考えてはみるが、たった一度だけ、お便りを送ってみたことがある。
「私、昔はこんな子供でした」の回。


 あんなに楽しそうに生きている(ように、私には見える)スーさんにも、自由に披露していたダンスを自ら封印してしまうような経験があったのだと聞いて、ナナシノユキサンにも!あった!ありました!と大きく挙手して、当ててもらいたいぐらいの気持ちになった。

だって、タイムリーと言うには少々ラグがあるけれど、あれはちょうど2年くらい前だ。シャワーを浴びていたら、突如蘇ったこの傷の記憶に襲われた。自由で、自信があって、人の目なんか気にしない、なんとも魅力的だった幼きナナシノユキサンを無くした日の記憶。無意識のうちに抱えていたその傷の記憶に襲われて、いい年したナナシノユキサン、シャワーを浴びながらおいおいおいおい、声をあげて泣いたのだ。

これが、よくある映画なら、トラウマの原因が解明されて、一気に人生が良い方向に向かい始めるセラピーのような、そんな気付きの場面だ。
けれど、あの頃のナナシノユキサンはその後も戻ることはなく、長年染み付いた病的な自意識過剰のまま、相変わらず人生は詰んでいて、それどころか、その傷をより一層大切なものみたいに抱くようになった。オーガンジーの布に包むぐらいの勢いで、長い間、潰さないようにそーっと大切に持ち続けてきたから、いいかげん肩もとても凝っていた。

だから、もし、読んでもらえたら、お焚き上げされて、ナナシノユキサン、今度こそはこの傷から解放されるかも、なんて思ったのだ。

おなかが痛くなるかと思いながら森を歩いた次の週、結局、ナナシノユキサンが送ったお便りは読まれなかった。それどころか、このテーマのお便りが、スーさん美香さんによって読まれることは、その日以降、なかったのだ。

お察し。。。

その日、スーさん美香さんに読まれた、互助会員たちの、幼き日々の彼女たちにできた、取るにも足らない、かさぶたみたいな傷たちは、でも、本人にとっては、悲しくも愛おしく、大事に包んで大切に守ってきたものだろうことが自分のことのように伝わった。
そりゃそうだ。だって、どれも、ナナシノユキサンのそれと、同じだったのだもの。年や地域や登場人物、具体的な事柄は違っても、起承転結がぜーんぶ同じ。

たぶん、スーさんも開けて初めて気が付いたのだろう。ギュウっと抱きしめてあげたいあの頃の私たちはみんな、どっかで作ってきたこんな傷を、手放せず大事に抱えて、大人になったって。たぶん、例外なく。一人ひとりには、大切な傷でも、代わり映えしない物語の繰り返しは、読むお便りとしては頼りない。

そうか、みーんな経験してたんだ、あれ。あの頃の自分を返してくれ、とドラマチックにおいおい泣いたけど、全然特別なものじゃなかったんだ。

ちょっとがっかりして、あれ、なんかそしたら、オーガンジーで包んでた大切なもの、急に軽くなった。マシュマロが溶けたみたいに消えていなくなって、あ。解放された。







傷を守り続けていたら、あの頃の魅力が、自分の隠れた本質みたいな顔していてくれてる気がして手放せなかったナナシノユキサンでした。





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