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「しにたい」という気持ちについて


「しにたい」と思うのは、いけないこと?
「しにたい」と思うひとは、弱いひと?


私は、「しにたい」と思ったことがない。

…なんて言うと、どれだけ恵まれた人生歩んできたんだよ、ふざけんなよと思う人もいるかもしれない。

でも、ちょっと待ってほしい。

「しにたい」と思ったことがない=何も辛いことがない ではないと思うし、
「しにたい」と思ったかどうかで、その「辛いこと」の大小や優劣ははかれないと思うんです。


私が、私の今までの人生でいちばんしんどかった時期を選ぶなら、間違いなくダントツで数年前(6年前だっけ)のある時期。

詳細は控えるけれど、なかなかヘビー級の災難が次から次へと降りかかったあの時期。

その時でさえ、私は「しにたい」とは思わなかった。

「なんでこんなことがあって生きていられるんだろう… あはは…」とは思ったけれど。

黒い感情に心を飲まれダークサイドに堕ちる寸前、

「このまま夜道に駆け出して交通事故にでも遭えば、私の苦しみを突き付けられるだろうか」

そんな感情が一瞬、頭によぎったのもあの時が初めて。

…あれ?
これが世間一般で言うところの「しにたい」っていう気持ちだったりするのかな?

とりあえず、「しにたい」の4文字を心の中や外で唱えない限りはカウントしないことにしますね(強引)


「しにたい」と思わないのは、私が「つよい人」だからでしょうか?


…違うんじゃないかな。

私の場合、あくまで私の場合は 「思考回路の問題」だと思っていて。

今までにもnoteで書いてきたことを例に挙げると、

・頭が痛いときに「薬を飲む」という考えに至らず痛みを耐え続けてしまったり

・学校で嫌なことツライことがあっても「休む」という選択肢が思い浮かばなかったり

・もともと「ガリガリ」と言われるくらい細かった体が食欲減退でさらに痩せたのに、他人に心配されるまで気づけなかったり…

私には、そういうところがある。
(以前に比べれば、自分が発する「サイン」に気付けるようになっているとは思うのですが)

「しにたい」と思ったことがないのも、それと似たような感じなんじゃないかと思ってる。

つらい、苦しい、しんどい…などの感情はあるし、どうして自分はいつもこうなんだろうとか、こんな自分嫌だとか、みんなの記憶から自分が消えていなくなればいいのにとか、思ったこともある。
かと思えば、自分が透明人間になったかのような気がして寂しくて、何もかもがどうでもよくなってしまったことも。

後悔も、絶望も、羞恥も、私の中では「死」という選択肢に繋がらない。ただそれだけのこと。

だから、弱いとか強いとかでもない。
「しにたい」と思うひとが弱いわけでも、思わないひとが強いわけでもない。

私はそう思っています。

そして、私のようなタイプのひとは、自分で自分の限界に気付けない危険を孕んでいるのではないかな。

無自覚のうちに「しんどさ」を溜め込んで、ある日突然パチンと決壊する可能性がある。
それは身体かもしれないし、心かもしれない。
両方かもしれない。

いずれにせよ、気付いたときにはもう手遅れ、という恐ろしいパターンになり得ると思う。

「自分は大丈夫だよ」、「しぬ気なんてさらさらないよ」と疑いもせず言っちゃえることが逆に怖い。

もし、まわりにそんな人がいたら。
いつもと様子がちがうことに気付いたら、声をかけてあげてほしいなと思う。

私も昔、保健の先生に「体重減ってるけど大丈夫?何か心配ごととかある?」と声をかけてもらって初めて
「あ、私体重減ってたんだ?心配ごと…?何か心当たりあったっけな?」
と自分を顧みることができたので。

誰かの一言が、ちょっとしたキッカケくらいにはなるかもしれない。


「しにたい」と思ったことのない私には、「しにたい」と思っている人の気持ちを理解することは難しい。
少なくとも、「わかるよ」と簡単には言えない。

前回の「お肉が食べられなかった話」とも繋がってくるのですが、
その人の「感じ方」というのは、その人に憑依でもしない限り本当の意味では理解できないだろうなと思っていて…

自分が知っている辛い経験をもとに想像はできても、あくまでも想像でしかなくて。
それに、想像すればするほど私は「しなないで」と言えなくなってしまうというか。

「世界には、生きたくても生きられない人がいる」
ってよく聞くけれど。確かにそうなんだけれど。

わからないからこそ、「しにたい」という気持ちを否定してしまっていいのかとか。
自分なんかにその人の何がわかるっていうんだろう… って。

考えすぎ?
考えすぎかな。


溜め息の訳を聞いてみても 自分のじゃないから解らない
だからせめて知りたがる 解らないくせに聞きたがる
あいつの痛みはあいつのもの 分けて貰う手段が解らない
だけど 力になりたがるこいつの痛みも こいつのもの


この詞は、BUMP OF CHICKENの『真っ赤な空を見ただろうか』という曲の歌詞の一部。

他人の痛みは解らない。分けてもらうこともできない。
それでも力になりたいと心を痛める、痛みを分けてほしいと願う側の気持ちにスポットを当てた歌詞。

考えすぎてしまうときは、この歌詞に少しホッとする。


目の前に「しにたい」と言う人がいるとして、どうするのが正しいのか、いつも分からない。
なんて声をかけたらいいのか分からない。
そもそも声をかけるべきなのか。

「しにたい」と思ったことのない私が放った言葉で、相手を傷付けたり絶望を与えてしまうことが怖い。
もちろん、しんでほしいわけじゃない。
むしろ、しんでほしくない。どうか、思い止まってほしい。けれど。


中学生のとき、いちばん大好きで仲のよかった友だちがよく「しにたい」と口にしていた。

その度に、喉の奥がキュっとなって。

私は何もできずに、いつもただ黙って聞いていた。

大好きで大切な友だちが目の前で苦しんでいるのを、黙って見ているのはつらかった。

私が彼女を救えたらいいのに。
そう考えることもあった。

「つらいよね、しんでもいいよ」
と言って抱きしめるべきなのか

「しなないで、私はあなたが大好きだから」
と伝えるべきなのか

しんでほしくない。
私は、彼女に生きていてほしい。

でも、彼女にとっての「正解」がわからない。
「間違った選択」をしてしまうのが怖かった。
自分の気持ちを押し付けて、彼女を失うのが怖かった。
彼女の「信頼」を失うのが怖かった。

結局は、自分のことしか考えていない自分…
そんな優柔不断で、ただ黙っているだけの私に彼女は失望していなかっただろうか。

私は彼女のヒーローにはなれなかった。

いつもそう、誰かのヒーローになり損ねた。
私が迷って躊躇っている間に、他の誰かが手を差し伸べる。
こんな言葉はもう聞き飽きただろうと飲み込んで渡せなかった言葉を、他の誰かが差し出す。

すると、そんな言葉を待っていた、と言わんばかりに涙を流して喜ぶ光景が目の前で繰り広げられる。

それを傍目に見て「よかったなぁ」と胸を撫で下ろしつつも、少しだけ苦味が残るのだ。


「渡し損ねた想い」や「渡せなかった言葉」たちは彼女の分も含めてたくさん、私の中に積み重なっていた。

私はそれらをかき集めて、唄にした。

その唄を彼女たちが聴くことはなかったけれど、その唄を聴いた別の誰かに「励まされた」「元気が出た」という言葉をもらうことがあって。

そのとき、唄がもつある意味「ズルい」魅力に気づいてしまった。

誰かに直接渡せなかった想いも、唄にして不特定の人たちに向けて歌えば、誰かがそれを「自分のこと」として受け取って「救われる」こともあるのだと知った。
そんな受け身なヒーローなら、私もなれるのかもしれない。

さっきからヒーローって書いてるわりに、ヒーローって言葉にはイマイチしっくりきていないんだけどね。

結局、私が救いたいのは私なんだ。
彼女を救えなかった私を救いたいだけなんだ。

こうして書いている文章もそうかもしれない。
でも、それでも誰かの心をすこしホッとさせることができるのなら、唄でも文章でも素敵なことだと思うんだ。


目の前に「しにたい」人がいたとき、どう行動するか。について

最近、特に印象に残った2つの事例をご紹介したいと思います。


まずは、

リンキン・パークの歌詞を引用し、見知らぬ男性の自殺を思い留めさせた女性が話題に

高速道路の橋の縁に座っている男性を発見した通りすがりの女性が、男性に寄り添いながらリンキン・パークによる「One More Light」の「Who cares if one more light goes out(もう一つ命が消えたって誰が気にする) / Well I do(私は気にする)」という歌詞を引用しながら、最終的には男性を思い留めさせることができた… というニュース。


男性の側に寄った女性がまず、

「縁に立ち、それが唯一の選択だと考える気持ちが理解できる」

と声をかけたということに、私はまず感動し、驚いた。

同じような状況で、このような言葉を、私はかけることができるだろうか。

「あなたに何がわかる?何もしらないくせに綺麗事言うなよ」
そう拒絶されるのを恐れて、きっと言葉を飲み込んでしまう。
それとも、それより先に体が動くものなのだろうか。

結果的に、女性は男性を思い留まらせることができた。
それが正しいのかどうかは分からないけれど、私は彼女の勇気と行動にそっと敬意を表したい。



つづいて、私が尊敬しているアーティストのひとりGOMESSさんの動画より。


GOMESS:ファンからもらって印象的だった言葉

該当の動画を紹介するGOMESSさんのツイート↓

動画(YouTube)へ直接飛びたい方はこちらから↓

「ファンからもらって印象的だった言葉」というテーマで、まずはいい意味で印象に残っているエピソードを。
つづいて、悲しいエピソードを、8分程の動画の中で語るGOMESSさん。

悲しいエピソードは、ツイキャスという媒体を通じて、一人のリスナーから「明日死のうと思っています」という具体的な相談(相談…?宣言?)を受けた過去についての話。

「しにたい」という気持ちに真摯に向き合ってきたGOMESSさんは、動画の中で次のように言葉を紡いでいます。


生きることだけが正義だと
全員にとってのしあわせ、
その人にとって必ずしも幸福だとは言い切りたくなくて
そんなの残酷すぎるというか
それってなんか、その人の人生を想像できないから言ってることだと思っているので
その人の話を聞くようにするんです、まず
話してくれるんだったら


GOMESSさんは実際にその人の話を聞いてみたのだそう。
どうしてそう思うの?と。

リスナーの話を聞いて、

「生きてたらいいことあるって」って気軽に言えるような状況じゃなかった

そう判断したGOMESSさん。

しぬよりも、生きていることの方が辛いかもしれない人を目の前にして、GOMESSさんはどうような行動をとったのでしょうか。

その行動は、言葉は、相手に届いたのでしょうか。
ぜひ、動画で見てみてほしいです。



2つのエピソードに触れて、
「相手に向き合う」というのは、きっとこういうことなんだろうなと思った。

結局わたしは、怖いのだ。

差し出した手を拒絶されるのが
余計なお世話だと罵られるのが

傷付く勇気がないだけ。

気持ちが分からないから言えないなんて、ただの言い訳なのかもしれない。

自分のことばかりで、やんなっちゃうよねほんと。


でも、そんな私でも過去に一度、はっきり「死ぬな」と引き留めた人がいる。

はっきり言ってあの時の私は鬼だった。

苦しくてどうしようもなくて、
もう何もかもどうでもよくなって、私にさえ嫌われ憎まれる覚悟で様々な行動をとっていたことを知っているのに。

それでも、散々私を苦しめておいて自分だけ楽になろうとしていることが、死んで償おうとしていることが…許せなかった。
私を苦しめた数々の行動よりもずっと。

償うんなら、生きて償え と訴えた。

(ごめん、やっぱり鬼ですね)

私を突き動かしていたものが「愛情」なのか、ただの「情」なのかさえ、よく分からなくなっていた。

あれが「正解」だったのかどうかも、いまだに分からない。

一緒に生きたこの先で、いつか分かる日がくるのかな。



私は今まで「しにたい」と思ったことがないけれど、今後もそうだとは限らない。

昔に比べれば、頭が痛ければ薬を飲むことも増えたし
疲れたなぁ、しんどいなぁと感じたら、早めに休むこともある。
適度に手を抜く方法も、逃げ方も、少しずつ身についてきてると思う。

そんな感じで、いつか「生きていくのがつらい」「しんだ方がマシだ」と思う日がくるかもしれない。

「死」という選択肢に手を伸ばす日が、来るかもしれない。

そうなったとき、できればその手をがしっと掴んで連れ戻してほしいと思う。

人でもいい、曲でもいい、絵を描くことや文章を書くこと、料理、お菓子作り、ギター、唄をうたうこと…
自分の好きなこと、好きな人、大切な人。

そんな「生きていたい理由」たちが暗闇を裂いて、パッと目の前に現れて、思い止まらせてほしい。
もう一度、「生きたい」と思わせてほしい。

そう願いながら、今日のところはおやすみなさい。



【余談】

今回は、「しにたい」という気持ちについて、ずっと思っていたことを書いてみました。

この文章は1ヶ月以上前に書き始めたので…
いつものことながら書き上げるまでとても時間がかかってしまいました。

そうこうしてるうちにnoteで発足されたお題
『#8月31日の夜に』

NHK Eテレによる番組「#8月31日の夜に。」と連携したお題です。

昨年は、amazarashiの秋田ひろむさんがナレーションと弾き語りで出演するということもあって、私も観ていました。

私はもうとっくに10代ではないけれど、番組で紹介される10代のリアルな感情には心当たりがあるものも多く、途中つらくなりながらも最後まで視聴しました。

番組の中で歌われた『僕が死のうと思ったのは』

秋田さんの歌声が、言葉が、誰かの辛い気持ちを洗い流してくれていたらいいな。

あまりに美しい光景に、そんなことを願ってしまいました。

▲Eテレ ハートネットTV『8月31日の夜に』
秋田ひろむ『僕が死のうと思ったのは』の弾き語りシーンより(模写)


秋田さん(amazarashi)が歌っている公式動画はなかったので、中島美嘉さんが歌っている動画を添えておきます。



最後に、私が最近よく聴いている曲も。

もともとは韓国語(と英語)の歌詞ですが、日本語訳(MVにも出てきます)を知って胸を打たれました。


You make me feel special
世の中がどんなに私を座らせても※
傷つく言葉で私を中傷しても
あながいるから私はまた笑う
That's what you do
Again I feel special
なんでもない存在のようでも
いなくなっても分からない人のようでも
私を呼ぶあなたの声で
I feel loved, I feel so special
(Feel Special/TWICE)

※「座らせても」という部分は、「落ち込ませても」というニュアンスで私は捉えています。



無意識でしたが、こうしてみると文章全体に「音楽」が絡んでいるなぁ。

やっぱり私にとって音楽は、「生きていたい理由」のひとつ、大切な存在のようです。

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