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「私立大学附属ならエスカレーター」の常識を破壊した男、大澤清克のハナシ

その昔、「ある私立大学が『中・高・大学の一環教育』のために作った附属校を全てひっくり返して進学校に仕立てる」と言う、当時では常識はずれの行為をした学校がありました。しかも、それを起こした人物の一人は学校設立メンバーであり、初代学校長として長年学校で指導をした人物だというのです。
故・大澤清克氏。ある中高一貫校の初代学校長として長年経営に携わってきましたが、それ以前では筑波大学附属駒場中・高等学校 (筑駒)の教員として在任し、副校長も勤めたトップ校の中のトップの職員です。氏はどうしてそんなことをしたでしょう。当時を調べてみました。

氏の履歴書

大澤清克氏は1926年 (大正15年) 6月26日生まれで、陸軍士官学校、東京農業教育専門学校 (現 : 筑波大学)、中央大学を経て数学科の教員となり、1950年4月より筑駒に着任します。余談ですが、筑駒は1947年に「東京農業教育専門学校附属中学校」、1950年に「東京教育大学附属駒場高等学校」として順次開学し、すぐに「東京教育大学附属駒場中学校・高校」として一体化して現在に至る歴史を持ちます。そのため、極論を言ってしまえばこの着任は「出戻り」と言うことなります。

「筑駒」という環境で培ったこと

そんな筑駒とはどんな環境だったのでしょう。まだ筑駒が「教駒」と呼ばれていた時代、衆議院議長をつとめた故・細田博之氏は教駒について次のように振り返ります。ここで細田氏は、ある生徒の保護者に焦点を当てています。

3人の息子をもつおかあさんが出席して、『私は長男と次男を駒場に進学させている。この学校はすばらしい教育をしている。私の三男も来年駒場を受けさせる』と紹介しました。この話がすぐに母親たちのあいだで広まり、成績優秀な子は教駒を第1志望とするようになりました。教育熱心な母親によって教駒は進学校となり、東大合格者を増やしていく。それが次の代の中学受験生に知られるようになり、秀才たちが連鎖的に教駒に入ってきたのです

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このインタビューは1973年のこと。当時、筑駒は東京大学に134人と言う日本一の進学者数を出します。こうなった理由ついて、同校の教員はこう答えます。

生徒のツブがそろっている。それに尽きます

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大澤先生はそんな筑駒の環境において、教職の傍らで様々な研究に取り組んいます。その中でも1976年〜1980年には筆頭著者として教育研究論文を投稿していたようです。また、当時は大学受験向けの参考書が予備校講師よりも高校教員や大学教員が多く出版していた時代であり、大澤先生の他に筑駒の教員であった栗原幹夫先生、長野東先生と共著の問題集も出版されています。
一方で、筑波大学の附属学校は本来、筑駒や筑波大学附属中・高等学校 (筑附) などを含めて、教育の実験、実証、教育実習の指導が主目的の学校となります (先述した教育研究も本来はこれらの行為が目的となります。)。

しかし、先生の筑駒時代は決して順風満帆ではなかったようです。先生は筑駒時代に起こったある出来事ついて、次のように振り返ります。

私は駒場のキャンパスで、中・高6カ年一貫教育をやってきたが、一時期、中学校は、義務教育、高等学校は非義務教育、(中略) となったことに加えて、中・高の教員の身分上の処遇の差から、中・高一体運営にひびが入り、6カ年一貫教育が、それぞれ中学校3年・高等学校3年に分離し、6カ年一貫教育の態様をなさない状態も体験してきた。

[2] ※構成の都合により後述とします。

「セカンドキャリア」を導いた私立大学の存在

神奈川大学からのヘッドハンティング

そこから数年、大澤先生は筑駒 (厳密には高校) の副校長として働いていた1983年に、ある方からスカウトがかかりました。その方の名は故・永井宏氏。神奈川大学工学部応用化学科の教授を経て学校法人神奈川大学の理事長となった男でした。
このスカウトこそが、後に「私立の大学附属校ならエスカレーター式で進学する」と言う常識に疑問を呈す、前代未聞の中高一貫校を作ることになります。その大学附属校こそが神奈川大学附属中・高等学校 (以下、神大) なのです。

当時の神奈川大学にあった事情

なぜ、神奈川大学が高校教員をスカウトしたのでしょうか。これは1976年に神奈川大学の内部や同窓会より神奈川大学の附属高校 (のちに中学も追加) の設立が提唱されていたことによります [2]。大澤には、その中高をゼロベースにて開校を担える校長として白羽の矢が立ったと言えるでしょう。
私立大学の附属学校と言うものは「附属学校から大学までのエスカレーター」が前提であり、「大学の譲歩」があった場合にしても進路の主流として経営されるものです。高校と大学の間の繋がりがないことが主流の国立大学の附属校とは整合が取れません。
事実、先生は「一貫教育のもとに、知育、体育、徳育の均衡をはかり、創造性豊かな人間形成に重点をおく [2]」ことができる神大に興味をひかれて学校法人神奈川大学に入社したと語っています。しかし、ここで注意すべきこととして「筑駒は以前より内部進学制度のない6年制の進学校であること」があります。つまり、大澤が語った一貫教育の正体は「中・高・大学の一貫」ではなく「中・高の一貫」である可能性があります。

なぜ、神奈川大学が筑駒の教員を採用した?

そもそも、私立大学の理事長である永井氏が声をかけた相手が、国立の大学附属校の教員の大澤先生だったのでしょうか。先生がスカウトされた当時の日本はバブル経済直前の頃。私立の大学附属校も沢山あるのだから、そこに声かけをしてもいいはずです。このことの真相については今もはっきりしていません。恐らく、早慶やMARCHの附属校では着任を許した人がいなかった、と言うのがあるのでしょう (実際に、一部の大学附属校においては、校長の仕事を理事長や学長、またはそのポストとなる大学教員が担当している場合があります)。

真実は?~神奈川大学が目指した「中・高・大学一貫教育」計画~

さて、ここでは神奈川大学が神奈川県に提出した設立計画書を確認します。その中では、神大の中・高・大の一貫教育を前提としていたのか、次のような記載があります。

開校は昭和60年4月とし、中学校12学級、高等学校18学級の規模で、男子生徒のみの附属学校とし、一貫教育の立場から原則として神奈川大学に進学を希望する者を対象といたします。

学校教育に対する今日的課題は、教育界のみならず各界において論議されているところではありますが神奈川大学はこれらをふまえ、私学としての特性を十分に発揮し、教育機関としての使命をはたしてまいります。

『設立趣意書』ー神奈川大学附属中学校・同高等学校学校設置計画書

もちろん、これは大学附属校としては当然の構想であることは間違いありません。しかし、この設立趣意書自体が神奈川県に対するブラフだったとも考えられます。何故でしょうか?

神奈川県の高校百校新設計画が私立の中高一貫校化に拍車をかける

この計画は1970年代から神奈川県が実施した教育政策で、実際に1990年ごろまでに既存の高校の普通科への転換や新設を実施したものです。この方針下での私立高校の新設となると、これらの公立高校との差別化を行うことは避けられず (=単なる「進学校の新設」ではただでさえ沢山ある高校と目的が丸被りするので、設置が却下される可能性がある) 、「一貫教育」の名の下に開校新設を急いだとも思われます。今の神大からすれば想像のつかない行動ですが、新設の為ならばと苦渋の決断だったのかもしれません。
ただ、現在の宮陵会 (注:神奈川大学の学友会) は神大を大学と完全に一体的な一貫教育を行う為の中学校と高等学校として作るよう主張していたこともあるので、この仮説が正しいかは保証できません。
ところで、先の神奈川県による「高校百校新設計画」はどうなったのでしょうか。残念ながら、計画には1990年代の少子化社会においては無闇に高校を増やすこととなり、結果的に高校の統廃合を弾力的に行うことになりました。また、普通科高校を多く新設または再編したことにより、教育困難校の増加や従前の工業高校や商業高校の間口を大きく減らす結果となりました。
他にも神奈川県の高校受験における「ア・テスト」の制度や通学区域の規制、評定重視の動きもあり、それを避けたい人の窓口として、神奈川県内での中高一貫校の需要が高まります。結果としては神奈川県の私立学校において、神大の中高一貫化を筆頭とした私立高校の募集削減とそれに伴う完全中高一貫校の増加がブームとなりました (事実、私立中学校に通う人口だけで見れば、東京→神奈川→大阪の順で全国2位の規模となっています) 。こうしたこともあってか、神奈川県内の中学・高校における大学進学実績や学芸や学術系の賞レースでは私立中高一貫校がリードする結果となっています。

神奈川大学附属中・高等学校における大澤先生の実績とは

さて、先生が神大の学校長として本格的に業務をするようになってからは「私立の大学附属校ならエスカレーター式で進学する」と言う常識に疑問を呈す行動を興します。
先生が初めて公にした行動の一つが教育方針でした。神大の開校にあたり、理数、英語、情報教育の強化を打ち出します。これらの強化は今でこそ全国的に行われている事項でありますが、開校初期からこれらの問題に堅実に取り組んでいたことが特筆されるでしょう。
この情報教育の強化を初期から取り組んでいたことが認められたのでしょうか、2024年より神大の学校長は情報科の教員が勤めております。
もちろん、この思想を実践に移す際に筑駒で行われたことを丸パクリした訳ではありません。先生は、初期に神大に入学する生徒についてこう分析しています (僭越ながら、編集上の都合により別著における要約文を引用させていただきます) 。

大澤の前職の筑波大学附属駒場中・高等学校では、入学する生徒や家庭の目標が極めて明確で一定しており、学校と家庭との相互の了解がしっかりとしているため、中学入学から高校卒業まで六年間同じ教員たちが担任を務める形をとっていた。附属学校は生徒も家庭も筑駒と比較するとより多様であり、教員も多様であったため、中学三年・高校三年で担任を交代する形をとった。これも大澤が学校の特性を活かした制度設計の一つであった。

[3]

先生は神大生が極めて多様な方向性を持っていることを強く認識しておりました。しかし、こうも述べています。

全員が大学へ進学を希望する生徒達であるが、神奈川大学への推薦枠には制限があり、さらに生徒の希望も、法学部、経済学部、経営学部、外国語学部に多く、理学部、工学部に少ないという偏りがある。したがって、生徒を希望する大学・学部へ進学させるには、適切な進路指導もしなくてはならない。

[2]

この発言は、神奈川大学への内部進学における推薦枠について述べた文です。しかし、「生徒を希望する大学・学部へ進学させるには、適切な進路指導もしなくてはならない」と言う発言こそが大澤先生が筑駒で得た経験を後の神大生、ひいては日本の私立大学附属校の常識に対して突きつけた「自由」の象徴であり、挑戦状となったのです。
その後、神奈川大学への (推薦での) 内部進学者は開講数年で大きく減少を続け、開校10年もたたないうちに内部進学者は半数を割った年も出しました。それどころか、1997年には現役生と浪人生の合算ながら2人の東大合格者を出しています。そこから大きく時が過ぎた2010年代後半からの挑戦ぶりとその躍進は、皆さんがご存知の通りではないでしょうか。MARCHでの合格者数は全国レベルで常連となり、特に2024年度入試では、神大から初めて東大を学校推薦で入学した学生が登場したことが挙げられます。

学校生活面ではどうでしょうか。大澤先生は「駒場の自由」と言う文化を触れてきた第一人者であるゆえ、生徒に「自主性」を尊重する立場だったようです。そこから派生して、中高一貫校のメリットと言う側面から次のように述べています。

中学校・高等学校教育で大事なことは、生涯を支える健康な身体をつくり、生活に必要な基礎的教養を身につけ、先人の文化遺産を継承して知識を修得することである。このためのカリキュラムは、教材の重複を避け、よく吟味、精選して、6カ年を見通した配列することが、重要であると考えていた。
こうした国立大学附属学校での実践・体験から、
「生徒が自主的に、伸びやかに、自立していく姿勢を挟ける教育」を展開するには、中学校3年(前期中等教育)と高等学校3年(後期中等教育)で分けることなく、前後期通した教育即ち「中等教育は、一貫するのが最善である。」と確信していたのである。

[2]

一方で、この「自主性」における脆弱性も理解し、生徒と教員のあり方について次のように述べています。

 中等教育は、人間としての人格・人権尊重の教育に根幹を置き、自主性の育成・自立の精神の涵養を主眼とし、管理教育ではなく、また、自由放任の教育でもなく、生徒の個性の伸展を期して、「生徒の自主性と、教師の指導性との調和に立脚した教育」をし、「創造性あふれる人間形成と、自由開達に自立する生徒を育てる」という考え方が、校長の教育理念の中心にある。
(中略)
 このように自主性を尊重する指導の中で、生徒をして自分の言動に責任を持たせ、自分の良心に従って、誠実に義務を遂行できるような人間形成を目指すべきであると考えている。

[2]

生徒に対して強い戒律の環境下で自身の思考や行動を見極めると言うのも時には必要です。しかし、生徒へ自主性を与え、そこから来る責任をもって生徒の思考と行動を強くすると言うことは自身および他者においてお互いにストレスなく活動できますし、社会活動の成功と失敗の予行演習を積むことができると言う利点があると言えます。
勿論「失敗」に対するリスクについては未知数であり、そこに他者が恐怖を持つことは至極当然であります。ただ、神大は6年間の世界であることから一度の失敗でもやり直す猶予もあります。もっと言えば、先の「戒律」は既に中学受験で経験したことではないでしょうか。
自己の責任を背負いつつも挑戦でき、失敗してもやり直せる社会。神大の中だけでなく、世の中全体でそれがきちんと出来るようにならないものでしょうか。

大澤先生の晩年

大澤先生の活動記録がほとんどない

そんな大澤先生は、1997年を最後に神大を去ります。奇しくも古希を迎えていましたし、先述した東大合格者を出した年でもありました。その後の大澤先生は表舞台に登場した姿が見つかりませんでした。神大に対しても何か特別なメッセージを発したかとそんなこともなかったようです (いや、流石にどこかのタイミングで祝電の一通は打ったかもしれませんが、90年代からある神大のホームページに残っていなかったのでネットベースで全くその記録がないことは確かです) 。
2012年 (平成25年) 2月13日。大澤清克氏は静かに息を引き取った。
この訃報は、2011年度末の学校報にて記載されていました。しかし、それも訃報欄に一行だけ書かれた簡素なものでした。
実際、大澤先生の直後に校長に就任された青柳昌宏先生の場合は学校葬までされたこととは対照的です 。ただ、青柳先生は校長として在任中に急逝されたことを付記しておきます。

神奈川大学人物誌で明かされた大澤先生の真の姿

このように大澤先生が残した実績や功績と言うものは後年の書籍ではほとんど記載のないものでした。しかし、2024年11月。神奈川大学人物誌より、先生の生前の様子を読めるようになりました。
誌面では、当時の神大の学校のあり方や在任中のエピソードが記述されています。他にもクレーム対処などの事務関係にも精力的かつ平等に対応されていたことが記述されています。今回はその中でも教職員における「自主」にまつわるエピソードを引用します。

忘れられないエピソードがある。開校当時、毎年一月下旬にマラソン大会を実施していた。ある年のマラソン大会当日、気温が低く底冷えのする日であったが、降雨もなく毎年恒例のイベントなので、教員が分担しながら準備や集まった生徒の対応をしている際に、突然大澤が教員に招集をかけた。「今日は気温が非常に低い、事故が起こる可能性があるので大会は中止する。こんなに寒いのに、なぜ誰も止めようと言い出さないのか」と教員たちに説いた。学校行事や組織を運営する場合必ず役割分担やそれぞれ担当責任者がいる。にも関わらず安全確認や生徒たちの健康を観察し確認すべき教員がそれを怠り、誰かの指示を待っていること、組織の中での役割がわかっていない、という訳だ。こんな具合では組織としての責任を取れるはずもなく、あらゆる可能性を考え抜いて初めて責任がとれるということを教えられたエピソードである。

[3]

人は「自主」と「責任」という言葉を用いれば、活動の幅を広げる上では強く推し進められることができます。しかし、人はそれらを真に抱えて動けるのでしょうか。「自主」の暴走で誰かを犠牲にしないのか。「責任」を乱用し、不利益の可能性を有耶無耶にしてしまわないか。神大生と神大ひいては神奈川大学、さらには学校法人神奈川大学においる今の環境はこれらが等価に作用できるのか。私たちの心配は杞憂であると信じていますが、どうでしょうか。

終わりに

今回は大澤清克氏についてその人生と周辺環境について執筆しました。
人の人生を綴る行為はある種の個人崇拝に近い形にどうしてもなるものです。特に大澤氏からすれば極めて無礼な行為に見えることでしょう。しかし、近年の神大を見ると、氏の没後10年以上もが経過した今でも、神大の中では例え名前を知られずとも氏の考えに対して理解が示され、今日もその考えに対して議論がされています。その考えに対して理解がされるならば、その考えの生みの親は広く知られるべきであります。そのため、今回は氏の人生と考えについて記述しました。(了)

参考文献

  • 表紙絵 : 神奈川大学附属学校の「くすのき」。 © 古の樹 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

  • [1] 『サンデー毎日』1973年4月17日号。

  • [2] 学校法人神奈川大学、神奈川大学附属中・高等学校『創立10周年記念誌 躍進の明日』1994年11月19日。

  • [3] 学校法人神奈川大学大学資料編纂室『神奈川大学人物誌 神奈川大学・短期大学部・附属学校編』2024年11月1日。

  • 小林哲夫(2024年10月16日)『筑駒はなぜ秀才が集まる学校になったのか? 歴史とOBからみる学校の「素顔」 』-https://dot.asahi.com/aerakids/articles/-/236347

  • 『設立趣意書』 - 『神奈川大学附属中学校 学校設置計画書』(注 : 同高等学校と文書は共通)

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