老アライグマが生きる動物園~チロルは陽の当たる場所へゆく~
ある日、アライグマが死んだ。
到津の森公園で暮らしていたオスの「マル」だ。
5年前に長崎バイオパークから来たマルは園内のアライグマの中でも
特に体が大きく、そしてマイペースな男子だった。
そんなマルが木から落ちて骨折したのは2020年の9月21日の朝
老いた体にも関わらず他の個体と張り合ったのか?昔取った杵柄なのか?
他のアライグマ達と同じように木登りをした結果なのかもしれない。
日光浴のために設置されたケージから見えるマルの体には治療の痕が
痛々しく残っており、僕を含む来園者は心配そうに彼の姿を見つめていた。
心配していたのは人間だけではない。
不安そうな顔でケージを掴んでいるのは、同じ高齢個体でメスのチロルだ。
チロルは陽の当たる場所へゆく
飼育下でのアライグマの寿命は16歳だが、彼女も既にその年齢に達しており
筋肉の衰えや体調不良から、彼女の体もかなり弱っていた。
だが飼育員さんの力添えもあり、最近は自力で外を歩き廻る姿が多く
見れるほどの驚異的な回復力をみせてくれたのだ。
ちなみに、海外では健康的な生活を送れなくなった動物にこれ以上苦痛を
与えないために安楽死を選択するケースが増えているという話も耳にする。
「動物の苦痛」を考えれば確かに理解できないこともない判断だ
しかし、地球から預かった命をどの程度まで人の手によって管理するのか。
人間と動物の関係を語る上でこの話は永遠の課題なのだろう。
日本では京都市動物園に居た高齢ライオンの「ナイル」の飼育展示が象徴するように、よほどの状態でない限り最期まで動物を見守る場合が殆どだ。
日本人が「散りゆく桜を慈しむ心」を持っているから…なのか関係は分からないが、僕が老いたアライグマに愛おしさを感じているのは間違いない。
ケガをしたマルにも「きっとチロルのように歩けるようになるから今少しの辛抱だ」と語りかけることもあった。
それから数日後、マルのケージはなくなった。
彼はこの小さな世界から、僕達の手が届かない広い世界へ旅立った。
最期まで外を歩くことが叶わないならば安楽死という選択肢を選んだ方が
よかったのではないだろうか?もしくはもっと人目に付かない室内で安らかに最後の時間を過ごさせてあげれば良かったのではないか?
広くなったアライグマの展示場を眺めながら、僕は永遠に答えの出ない
問答を重ね続けていた。
だが、そこに残っていたのは自由が効かない体で歩くチロルの姿だった。
室内にいつでも戻れるようにバックヤードの扉は必ず開いているが
彼女は自分の意志で表に出てきて、歩きたい道を選んでいた。
それはいつも陽の当たる場所だった。
ふらつきながら、何度も倒れているのに、その姿は弱々しさよりも
むしろ僕に力強さを感じさせてくれたのだった。
「体が不自由だから」「高齢だから」その理屈は彼女の姿に当てはまらず
動物として自分の意志で陽の当るところに小さな足を踏み出していた。
勿論アライグマだけではなく、人間だっていつかは老いが来て
体の自由が利かなくなり、そして最期の時を迎えるのだろう。
僕も、あなたも。
しかし、いつでも「自分の意志は自由」だ。
木登りをして怪我をしたマルや、倒れながらも外に出てきたチロルのように
「意思を持って陽の当たる場所に踏み出す」僕はそんな生き方がしたい。
チロルは陽の当たる場所へいった
ある日、アライグマが死んだ
到津の森公園で暮らしていたメスの「チロル」だ。
死因は「老衰」2021年5月21日 動物園は緊急事態宣言下で休園中だった。
そして僕はこの記事を書いている途中だった。
今度は展示場も掲示物を見る事無く「チロルもマルと同じ世界へ行った」
と理解するしかない。
大好きな2匹が居た、その場所でお別れが言えないのは本当に辛い。
だけど最期まで生きる姿を見せてくれたチロルと
その環境を整えてくれた動物園に関わる全ての方々に僕は感謝したい。
今居る場所が動物園じゃなくても、天寿を全うすることができた彼女に
「ありがとう」そして「さようなら」と心で言える事を僕は幸せに思う。
きっと別れの言葉を伝えても彼女に届かない事は重々承知している。
でも旅立つチロルに1つだけ聞けるならば僕に教えて欲しい。
「今、僕は君のように陽の当たる場所を歩んでいるだろうか?」
ご支援頂けると僕が遠めの動物園に行けます。