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スタジオジブリと三十路になった僕らの道(君たちはどう生きるか感想・考察)

誰かが作り上げた美しい積み木はいつか全て崩れ去るのだろうか。

不景気や大災害など鬱蒼とした平成をなんとか生きて僕は32歳になった。
「出会い」よりも「お別れ」が増える事に気づいたのはつい最近だ。
その経験を経る度に別れた存在は自分にとって何だったのだろうと考える。

「君たちはどう生きるか」
本作はスタジオジブリによって2016年に制作が開始され
7年が経過した今年ようやく公開されることになった最新作。

そして本作が宮崎駿氏にとって最後のジブリ作品になる事を僕は理解した。

30代にとってのジブリ映画

本文を閲覧している皆様が必ずしも同世代ではない事を考えると
まず、この場では一時的に三十路の代弁者である僕が同世代にとって
ジブリ映画がどんな存在だったのかを説明した方が良いだろう。

まず、僕が生まれた平成3年に既に代表作「風の谷のナウシカ」や
「天空の城ラピュタ」は公開済であり、映画館での封切りが記憶にあるのは
「もののけ姫」だった。公開後はルーズソックス履いてたまごっちを持っていた若い女性達が「アシタカ様」に夢中になっていた事も覚えている。

ジブリ作品が子どもに与える影響は大きく、学校行事でもジブリの楽曲が当然のように関わってきた。
運動会では「さんぽ」が入場行進で使用され、学芸会では「海の見える街」が演奏課題になり「君をのせて」が合唱曲となっていた。

とにかく我々の世代は今思い返すとジブリだらけだったのである。

「君たちはどう生きるか」

有名人や一般人、映画を視聴した多くの人がネタバレを恐れ
映画の内容については未だに踏み込んだ内容を語ることを控えているが
先日配信を行ったネタバレ座談会の経験を元にすると

語ったところで未視聴者には理解が追いつかない

という結論に至ったのでこのまま僕の感想を述べる事にする。

まず、本作の主人公「眞人」「大叔父」は宮崎駿監督の写しだろう。
この映画のタイトルに使用された吉野源三郎の著書
「君たちはどう生きるか」は監督が幼い頃大変な読書家であった母親から
同書を手渡された経験を元にしており、劇中では自暴自棄になる眞人が
自らの行動を変えるキーアイテムとしてその役割を担っていた。

また、脆く崩れやすい不安定な異世界を維持し続けている大叔父は
ジブリという大きく壮大な世界を作り続け82歳になった宮崎駿の姿だ。
実際、本作を創作するにあたって「映画の完成時に生きているのか?」
という心配を自身の原稿に書き残していたことからもそれは伺える。

そのため、これまでの宮崎駿監督の経験や想いの代弁者である二人が
主役として話の軸になっていくにつれて話は複雑になっていった。
おかげで映画ポータルサイトでの評価は真っ二つに割れた。

映画の評価に関しては様々な賛否様々な意見があると思うが
僕は深夜のラジオ番組で伊集院光さんがこの作品を「宮崎駿の生前葬」
と評価した事にひとつの落とし所があるように思えた。
「人の法事で面白いとかつまらないと言うのは違う」のだ。
なので「面白い」「つまらない」といった評価を僕はこの場では使わない。

それよりも座談会を通して映画を視聴した友人やリスナーから話を聞くと
観客を強く惹きつけた強烈なキャラクターがこの映画には存在したようだ。

アオサギ男

公開前に唯一明らかだったのはこのアオサギ男の一枚絵だけである。
ちなみに僕は「アオサギが主人公のジブリ作品なら見よう」と鳥類好きを
拗らせた結果映画館に足を運んでしまったが…まあ結果として
超鳥映画だったので大満足だった。

しかし、このアオサギ男。ルッキズムによる批判を恐れずあえて書くと
「ジブリ史上最もブサイクなキャラクター」だったのではないだろうか。

ジャケ写詐欺(鷺)

眞人(宮崎駿)と喧嘩しながら友情が芽生えるという設定上このアオサギ男は「鈴木敏夫プロデューサー」がモデルだ!と考察する人も居たが
「美しいアオサギの内に居る醜悪な男」を考えた時、僕は違った結論に
至るのではないかと考えた。

イマジナリーフレンド

主人公の眞人は見聞きした事柄をメタファーとして読み取る力を持っている
というより母の死や父の再婚など自分ではどうしようもない状況下に置かれ
ノイローゼから来る精神崩壊状態に近いのだ。

そして新たな母に案内され「青鷺屋敷」にたどり着く
「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」として子供向けの作品を作り続ける宮崎駿監督の考えが眞人の心に宿っているとすれば
彼の中に「逃げ場」としてアオサギ男が現れてもおかしくはないだろう。

創造的な眞人の中に存在するイマジナリーフレンドとしてのアオサギ男は
端正で若い眞人とは真逆にチビでデブでハゲで鼻がデカく(歯並びは良い)
作り物の母親を生み出して眞人を騙そうとする行動に到底好感は持てない。このように物語の序盤で眞人はアオサギの言動に翻弄されているが、実際に嘘をついているのは自分自身であり、騙していたのも自分自身だったのだ。

「穴を開けた人間が塞がないと駄目なんですよ」

物語の序盤、アオサギ男は眞人に弓で射られてクチバシに穴を空けられ
空を飛ぶことができなくなってしまっている。
自らの分身であるアオサギに弓を向けることは「自分に向けて弓を引く」
事と同意義であり、自傷行為で頭に傷を負った眞人との繋がりを感じる。

「クチバシの穴さえ塞がれば飛べるのに」とボヤくアオサギ男に向けて
「自分で塞げばいい」と突き放す眞人に対してアオサギ男が放った言葉

「穴を開けた人間が塞がないと駄目なんですよ」

どうしようもない状況に置かれた時、人は誰かの助けをあてに受動的になる
だが、再び羽ばたくために結局自分でその穴を埋めなければいけないのだ。
結果的に眞人は、最初アオサギ男に向けた刃物を使って木を削って栓を作り
アオサギ男の穴を塞いでやることになる。

この過程が面白く、眞人の加工技術の未熟さ故か一度目は失敗する。
しかも、その際アオサギ男は眞人を置き去りにして飛び立とうとするのだ。
そして眞人は2度目の栓づくりに挑戦し、これは上手くいく。

簡単に穴が塞がらなかったからこそ、眞人はもう一度挑戦した。
また、2度も自分のクチバシに向き合ってくれた事に対してアオサギ男も
眞人に反目する気持ちが薄れていったのではないだろうか。

僕は「穴を塞ぐ事」よりも、その「過程」に意味があったのだろうと思う。
死の世界で眞人の世話をしてくれたキリコさんが些細なことで反目しあう
二人に「仲良くしろ」と言う場面があったが、そもそも自分自身と仲良く
なる事はそんなに簡単なことじゃないだろう。

座談会を共にした友達が生の世界に戻ったアオサギが「あばよ、友達。」と眞人の元から去っていた場面が強く印象に残ったと語っていたが
僕も映画を観終えた時にここまで印象が変わるキャラクターに出会ったのは
初めての経験だった。

そして僕の内面にも友達になりきれないアオサギ男が居る事に気づく。

米津玄師

上映前に全く情報が公開されなかったため映画の主題歌である「地球儀」を米津玄師さんが担当している事など僕は全く知らなかった。
というよりも彼の楽曲を聞く機会が無かったので今回の映画によって深く
彼の事を知ることになった。

18歳でボカロPとして圧倒的な才能を世の中に示して21歳で本名の米津玄師
としてメジャーデビューすると途轍もない勢いで自己表現の幅を広げ2018年社会現象になった「パプリカ」は僕だけでなく宮崎駿監督の耳にも入る。

いまの子供たちが学校行事で「パプリカ」を歌い踊っているのを見ていると
事あるごとにジブリの曲を歌い踊っていた幼い頃を思い出した。
僕と同い年である彼も同じ感覚なのだろうか。

彼と僕を比較することはおこがましい行為である事は重々承知している。
だが、僕と同じように2000年代後半に専門学生になってニコニコ動画を
見まくって育った彼は今作に込めた想いを理解して主題歌を完成させ
僕らの創造力の基礎を築いた宮崎駿監督を感涙させた。

「地球儀」は別れを乗り越えて未来に進む人々への応援歌だった。

地球儀

僕が無知な21歳の頃、夢を持って勢いで映像業界に飛び込んだものの
自分を守るためにその責務から逃げ出してしまった。
今は結果的に大好きな動物に関わるコンテンツを小さく作りながら
応援してくれる人に出会うことができたので、なんとかここまで生き抜く
ことができたものの、もしそうでなければ僕は大袈裟でもなく
本当に死んでいただろうと今も思う。

今でも僕の内面には「選択は間違いじゃなかったのか」と過去の未練に
自分を引きずり込もうとする最初のアオサギ男のような奴が存在している。
そんなコンプレックスの塊から僅かに伸びた手足で創作を続ける僕は
正直、途方もない米津玄師さんの才能に嫉妬していた。

だけど、理由を深く考えると「地球儀」のとある歌詞が僕と彼の間に
差を作っていたのは「この世界を見通す解像度」なのだと教えてくれた。

「この道が続くのは 続けと願ったから」

生きている限り、自分の思った通りの道を歩むことは必ずしもできない。
ただ、目の前にある道は「自分が望んだから存在する道」のだということを

たとえ小さくとも、永遠に「名無し」だろうとも僕は生きていていいのだと
ジブリと米津玄師さんが僕の生きる道を肯定してくれた事を光栄に思う。

この映画はきっと宮崎駿監督が描く最期のジブリ作品になるはずだ。
感受性豊かな時期に脳味噌がいっぱいになるほど想像力を僕らに
詰め込んでくれた宮崎駿という偉大な存在に対して僕は感謝しかない。

残念ながらスタジオジブリはこれで終わってしまうかもしれない。
だが、米津玄師さんのような途轍もない創造者は間違いなく
違う形にして宮崎駿監督の意志を引き継ぐことができるのだろう。

崩れ行く美しい積み木を拾い集め、この世界を新たに創造する
僕ら三十路の代表として、これ以上の適任者は居ないはずだ。

もし、いつか僕が心の中のアオサギ男と友達になれたら
少しだけその積み木を拾わせてくれると嬉しい。

ご支援頂けると僕が遠めの動物園に行けます。