人を救うのは神や仏だけなのか
「人間というものは中間的な存在である。人間は無限大でもなければ無限小でもない。無限大なものに比べれば人間ほど小さいものはないし、無限小に比べれば人間ほど大きいものはない。しかもそのいずれでもなくて中間的な存在である。あるいは人間は動物でもなければ神でもない。神に比べれば実にいやしい存在だし、動物に比べれば無限に崇高な存在だ。しかもそのいずれでもない。ここに人間の存在そのものの根源的な動揺性というものがある。そしてまたそこに不安がある」
上記の言葉は著作にてパスカルの言葉として引用されている。
換言すれば、「人間は神と獣の中間的な存在であり、そのいずれでもない」と表現されている。
しかし、中間的な存在であるがゆえ、その内面は不安定であり、どちらにも転びうる。
動物側に近づく手段として誘惑や贅沢、快楽のようなものが用意されている。
また、神や仏に近づく手段として、無宗教の者は道徳や倫理、宗教を信じる者は信仰する宗教が用意されている。
宗教は神や仏に近づくための道のひとつとして用意されているが、宗教を通じて争いが起こることもあるため、人間側の解釈が常に正しいわけではないことには注意したい。
人間は苦境に立たされたとき、信仰宗教の種類や有無を問わず、神や仏に縋る思いを抱きがちである。
しかし、善良な行いを積み重ねていようが、救われないときは救われない。
理不尽や不条理、救われない悲惨というのは、現代においても目にする機会は決して少なくない。
だが、それらの不条理を通じて、人間は善良に生きても必ずしも救われないことを知っているし、努力しても必ずしも報われないことも知っているはずである。
だからこそ、神や仏だけに頼るのではなく、人が人に寄り添うべきなのではなかろうか。
無論、人間には神や仏のような無限性はないし、全てを救済することはできない。
その有限性のなかで力配分を苦悩しながら、補い合い助け合うことが求められる。
人を救うのは、信仰の対象である神や仏だけではない。
人間が神と動物の中間的な存在であるのであれば、人もまた人を救える可能性があると言える。
我々は不条理な世界に投げ出された存在である。
心を砕くような理不尽が降り注ぐ中、善良に生きたとしても、神や仏に救われるとは限らない。
だからこそ、有限性の中で苦悩しながら、人が人を救い続けるしかない。
そのようにして、我々は今日まで生き残ってきたのではないだろうか。
「だけどな無一郎 どれだけ善良に生きていたって神様も仏様も結局 守ってはくださらないから 俺がお前を守らなければと思ったんだ」