承認欲求をなくせ。なんて言いますけども…
先日、【嫌われる勇気】を読んだんですよ。(まだ一回しか読んでないので中身の解像度が低かったらごめんなさい…)
その中で一番心に残った言葉が「承認欲求をなくしな」みたいな言葉。
私も納得いきました。
確かに、他人のために生きるなんて勿体ない。
なんて思えたがやはり承認欲求はあったままでいいな…なんて、
せっかくだし捨てるまでいかなくてもいいのでは?…なんてね。
そんなあやふやに生きている私なりに色々考えてみることに、
認められる、褒められることで承認欲求は満たされる。
私は他人のために生きる人生というのもあまり好きではない。
かと言って他人に求められない人生というのもまた寂しい。
また自分のことを満たせれる程自分のこと認められないし、褒めることもできない。
人から褒められたい!
…わがまま過ぎる。どうしたものか。
自分が考えて動いたものがたまたま周りの人間に刺さって褒められたんだって考えることが良いのですかね。
やる気出させるためのお世辞言ってるんだな。と褒められるというものに期待しなければ良いのですかね。
でもこの考え方って褒める側からするとなんだか寂しいものではあります。褒めたとしても何も無かったかのようにされたり、お世辞なんだって思われちゃったりするというのも。反応が無いのは寂しいものです。
褒めたときに反応があった方がなんだか嬉しいですよね。ってこれも承認欲求の一つなのか…?
「褒められるために、認められるために、と考えすぎるのもよくないですね」、「自分のこと認めてあげて!」、「もっと自分のこと褒めてあげなよ!」
なんて口では簡単に言えるし、手では簡単に書けるんですけど…できないものですよね。
ちなみに私はできませんでした…笑
承認欲求、捨てたほうが楽に生きられるって分かっていますが、
「なんだか勿体ないなぁ」なんて言い訳をしながら不器用に生きてます。
承認欲求の考え事をしている時、ふと頭の中に出てきた考えがあります。
「真面目ってすごく損するな…」とか「こんなに頑張っていることって本当に自分の意志なのか、誰かのためなのか、」とか。
不真面目な子とかなったことがないので分からないし、誰かのために頑張ってるとか気にしたことないけど、、、褒められたい。
私って学校の掃除とか毎回行って真面目にやるタイプなんですよ。
自分のためとか何一つ考えずに。当番で決まってるからやるかぁ。ぐらいの気持ち。
学校ですから色んな子がいるのですよ。
毎回来なくて友達と話をしたり遊んだりして掃除に来ない、たまに先生に引きずられながら来るちょっと真面目ではない子とかもいました。その子来た時褒められるんですよね。
一か月に一回しか来なくてもその来た1回をすごく褒められていたんですよね。すごくモヤモヤしました。なぜだ、なぜあの子は褒められるんだ。私は毎回来てるのに何も言われない。何が違うんだ。と悩んだ時期もありましたが、、、
この承認欲求はいらないな。捨ててしまいたい。
と心の底から思ました、なんか生きづらくなっちゃって、世界が狭く感じちゃって、そこで私は捨て方知らない承認欲求を捨てることに。
「この掃除は自分のため、だから褒められる必要もない」
と考えることにしました。考えるというよりかは自己暗示に近いのかも。
自己暗示する度に頭の中に出てくるのは真面目ではない子の褒められた時の笑顔。
嫌になって頭の中全て「自分のため」にしたんです。そしたらある日褒められなくても良いや、自分さえできていればいい。そう思えました。
やっといらない承認欲求を捨てれたな。と喜んだんです。
でも
それはただの諦めでした。捨て方、ゴミの処理はしっかりと学んでおくべきだなと強く感じました。
諦めた瞬間すごく楽になったんですよね。
マンホールって意外と繊細な模様してんなぁ、
コンクリートって綺麗なんだな。
雲って以外と大きいけど空を占める割合的に考えると小さいんだな
って思えたんです。心が軽い、楽だな。やっぱ承認欲求いらないかも~
ラッキーラッキー
結構ルンルンでした。嬉しかったし楽だったんです。
…けどなんか寂しいような、なんか心が軽くなった分寂しさが来たんですよね。
いる承認欲求といらない承認欲求がある私めんどくさいな…笑
結局
承認欲求を持っておくのも捨てるのもどちらも正解であり不正解なんじゃないかなぁ…と。
なんてあやふやに生きてる私なりのワガママな考えを残しておきます。