なまほしちゃんがきっかけで『檸檬』読んだ

深層組というVTuberグループとして活動されている、なまほしちゃんの切り抜きで、「梶井基次郎の『檸檬』を読んで意味わからないと思った人は身体的精神的に健康な人だ」と言及されていたので、読んだ感想を書く。

最初は、主人公は鬱なのかなと思った
理由:他人が出てこない(主観しかない)、自分を客観視していない
        考えが纏まっていない、飛び飛びである

ただ、Wikipediaとか読んでみると、

・作者の投影である
・あるがままを書いている(主張、誇示する意思がない?)

ことから、幼児がえり、あるいは「私」の日常的な幸せを記したものであるのかと思い返した。
つまり、鬱ではなく、お金のない苦しい生活の中で自分がどのように幸せを導き出しているのか、を文体も使って表しているのかと考えた。

「飽くまでも自然であり平常である」

また、なまほしちゃん切り抜きのコメントに、以下のようなものがあった。

だから檸檬は爆弾なんだよ

このコメントの真意は汲み取れないが、自身の体験が世に広くもたらされる時、その体験はほとんどが削ぎ落とされ、大衆受けする「作品」としてまとめられる、ということを指摘しているとわかった。
また、「だから檸檬は爆弾なんだよ」について、一般化された作品の中に混入する個人の主観的な体験は、ある人には奇作と捉えられ、またある人には自己を表す傑作と捉えられるだろう。その中で、その作品を傑作と捉えた人について、その人に(もしかしたら人生を変えるほどの)強烈な影響を与えうることを爆弾と言い表していると読み取った。

そう考えると、本作の中で「私」が丸善の積んだ本の上に檸檬を置いたことは、この世界に沢山ある書籍に本作「檸檬」を追加したことを暗喩しているとも考えられる……か?

と考えると、Wikipediaの記載で、

梶井は友人の近藤直人に宛てた手紙の中で『檸檬』を、〈あまり魂が入つてゐないもの〉と書き[11]、単行本刊行の翌年の淀野隆三宛ての手紙にも、〈檸檬は僕は当時あまり出すのが乗気でなかつたので君や三好の、殆ど独断的な取はからひなしには 決してあれは世に出てゐるものではなかつたらう、さう思つて僕は幾度も感謝した〉と書き送っていて[12]、その文面からは当時の梶井自身は、あまり表立って『檸檬』を積極的に評価していなかったことがうかがわれている[12][13]。

これについて、梶井の友人であった淀野隆三の見立てでは、これは梶井が逆説的に言ったことで、実は自信を持って発表したと解釈している[6]。

というところからも、「檸檬」が世に出ることで他人に影響を及ぼすことを期待していたと捉えられなくもない……がこれはあまり適切ではないように思う。正直妄想が過ぎる……

さて、爆弾について別の考察もされている。

そこに、たかだか一個のレモンを、この世のすべての「善いもの」「美しいもの」に匹敵すると感じる倒錯した心理が浮き彫りになる。そして梶井は、レモンを爆弾に見立てることに、自分を圧迫する現実を破砕してしまいたいという夢を刻みつけた。(中略)
— 鈴木貞美「檸檬を書く」

これは、とても正直な考察のように感じる。つまり、(これはあくまで私の感じ方だが)爆弾という単語のイメージと鬱を結びつけている。
ただ、私が本作を読んだ時に感じた鬱は、「金ね~~幸せそうな奴らや普通に生活してる奴ら見るのつれぇ~~この檸檬が爆弾になって丸善消えたらマジワロスwwwwwwwwwなんちってwwwwwwwwwwww」といったような、自分で解決しようとする系でも、現状をぶっ壊したいという衝動でもなく、現実を苦渋を飲んで受け入れる弱い大人だった。なので、爆弾も「現実を壊したい」よりも、「死んだ後で爪痕残せたらラッキーwまぁそんな訳ないけど」という思いなのでは。脱線してきた……


最後に、これを読んでみて共感したか?あるいは拒絶したか、というと、よくわからなかったので、今度病んだ時に「自分は今京都ではなく仙台にいるのだ……」という現実逃避は一度やってみようと思う。


色々と考えられて面白かった。★5


P.S.
ところで「私」、丸善の本で何やってんの?
出した本を積み上げてお城に見立てているのか、はたまた本棚にお城風に本を使って積み木遊びをしているのか……

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