見出し画像

【ドイツ】褒める行為を見直したい

日本の大学に一年間交換留学をした何人かのドイツ人学生が日本で体験したことについて口をそろえて言っていたことがあります。

日本では会う人会う人に開口一番で「日本語が上手いね!すごいー!」と褒められていたと。

彼らはドイツの大学の日本学専攻なので大学で日本語を集中的に学んでいます。そのため読み書きや文法、日常会話を一定のレベルで話します。

そんな彼らが「ドイツから来ました」と言っただけで「え、日本語しゃべれるの?上手だね!」と褒められ「ひらがなも読めるの?」「漢字も書けるの?」と(彼らにとっては)当たり前のことを訊かれる。

「ありがとうございます」というと「敬語も完璧!」と驚かれる。

「日本語を勉強しています」というと目をまんまるにして「すごーい!私よりうまい!」とかいう。

彼らがいうには、その大げさな褒めっぷりがかなり屈辱的なんだそう。挨拶や自己紹介程度の段階で自分の日本語のなにがわかるのか、わからん段階で適当に褒めるなや、と。そして褒める内容も「上手い」や「すごい」以外ほとんどなく、なんにでも同じ言葉を反射的に言っているように聴こえるそうです。

確かに。私も日本にいたころ、何度日本語学習者の日本語を思ってもいないのに適当に褒めたことか。数えきれない。これは以前の私自身のことでもあります。

褒めるにしてもどれぐらいのレベルで話すのか見極めてからでないとさすがにバカにしすぎだと今は理解できます。

☆☆

それでは逆に私が習いたてのドイツ語と一生懸命格闘していたとき、現地人はどう接してくれていたか?

いたって他の人と同じように「普通」に接してくれていました。いきなり「オー!君はドイツ語が上手だね!」のような漠然とした褒められ方をしたことはただの一度もありません。

しかし唯一、ほとんどの人が語学力について褒める場面がありました。私が自分のドイツ語が上達してる気がしない、とか難しすぎてもうやめたいとかうなだれているときです。どちらかというとそれは褒めるというよりも慰める、フォローするというほうがふさわしいでしょう。

「君は発音がとてもいいので聴きやすい」とか
「自分が説明できないような複雑な文法を君は理解してるじゃないか」とか
「前に会った時よりも語彙数が増えてる」とか

決して「ドイツ語がうまい」といった漠然な言い方ではなく、部分的に褒めてくれるのです。ネイティブがいい部分を見つけてこのように指摘してくれるというのは何よりモチベーションが上がります。そして具体的であればあるほどこの人は嘘やお世辞ではない、本当にそう思っているんだという感じがします。このような一つ一つの言葉が自分のドイツ語を押し上げるのを手伝ってくれ、今でも感謝しています。

また、関係の近い友達からは気づいた細かいことをその場で褒めてくれることもありました。この例はよく知られていることですが、ドイツ語は文法ではこう決められているけど口語では別の文法を使うという現象があります。

たとえばドイツ人は “Wegen dem Unterricht kann ich nur später kommen.”(授業があるからその後でしか来れない。)

と平然と表現するところを文法を習いたての学習者は覚えたての文法で“Wegen des Unterrichts kann ich...”と頑張って言おうとします。

正しくはwegen+二格(-des Unterrichts)、しかし口語ではwegen+三格(-dem Unterricht)が使われている例です。ネイティブは二格を使うことを嫌っており、口語では二格を三格にすり替えて使います。しかし文法的に正しいのは二格なので語学学校でそう習う私たちは二格を使おうとするわけです。

このように私が二格を使った瞬間に「君はドイツ人よりも正確なドイツ語を使う、素晴らしい、今までまだ一度も聴いたことがなかったよ」とそれちょっと大袈裟ちゃう?ていうかそれ褒めてるの?ぐらい絶賛されるのです。(これはドイツ語学習者あるあるです)

つまり何が言いたかったかというと、こっちの人は褒めるタイミングというものを見極めており、ほめる時はなぜそう思うのかという理由をつけた上で「だから自分はこう思った」と完結するのです。

☆☆

そもそもドイツに住んでいると「褒める」の捉え方が自分の感覚とだいぶ異なっているなぁと感じることがよくあります。

中国なんて初めましての場面でも「美人だね」「かっこいいね」と外見を当たり前のように褒めることも多いです。これはドイツ文化では到底考えられないこと。

これは私がなんとなく感じていることですが、こっちの人はいきなり褒めるという行為を「一方的な評価」ととらえるところがある。言い換えると少し上から目線に感じることがあるのではないかと思っています。だからさきほどのように褒められるという一見嬉しく思える出来事に関して逆に屈辱的という感想を持ったのかもしれない。

たとえば約束の場所に現れた友達が髪を切っていた。私なら日本人や台湾人の友達なら「髪切った?似合うね!」などと必ず話題に出します。
新しい服を着ていたら「可愛い服!どこで買ったの?」などといいます。

しかしドイツ人の場合、外見の変化にはほとんど言及しません。そして相手から訊かれたり求められない限り、いいと思っていても「評価」をしてしまうことを避けている気がするのです。髪を切ったのに言及されないとか拍子抜けた感じがする人もいるかもしれません。が、こういった小さな違和感が異文化間では必ず起こるカルチャーショックというものです。

日本の異文化の中で生活した「すごいといわれる屈辱」という体験もドイツ文化と日本文化の中で起きたカルチャーショックの一つです。

褒めるという行為ひとつをとっただけでも異文化に適応するのはとても難しく時間がかかることですね。今日も私はドイツで観察しながらより高度な適応を模索しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?