エクストリーム7年生 (2)

   第一章・その男、落窪三土

「山でボヤがあったみたいですね」
 哲学研究室の室員、額博(がく・ひろし)は仕事用のノートPCを操作しながらこう切り出した。
「ええ、私も文学部事務室で聞きました。夜遅くに大きな音がしたとか」
 相手は、教授の暮石進(くれいし・すすむ)だった。物騒な話題ではあったが、いつものように悠然とコーヒーメーカーから一杯分をカップに注ぎながら返事をした。
「警察も捜査してますけど、まだ解決してないらしいですね」
「そうですか。ここも最近はあまり穏やかじゃないのかな」

 暮石の言う「ここ」とは、秀央大学(しゅうおう-)である。もともと都心にあったが1970年代に多摩キャンパスが新設され、文系学部が移転した。東京都内とはいえ自然豊かな土地で、額の言う「山」がキャンパスの中央から南側にかけて広がっている。

「火炎瓶が使われたという噂もありますね」
「昔の学生運動みたいだな。治安が悪くなるのは困るが」
「まあ、今のところこの研究室は大丈夫でしょう。いつも彼が寝ているぐらい平和ですから」

 額が目をやった先で、テーブルに突っ伏している学生がいた。哲学科の落窪三土(おちくぼ・さんど)である。哲学研究室が開いている日は必ず来て、両腕を枕にして眠る習慣があった。チェックの襟シャツとよれよれのジーンズという組み合わせが毎日なので、どう考えても秋葉原から来た人間にしか見えなかった。しかしイビキも寝言もなく静かなので他の利用者の迷惑にならず、半ば研究室の空気と化していた。

 そろそろ次の授業が始まるはずだけど……と、額は入り口近くの壁を見た。哲学科の授業スケジュールが書かれた、A4サイズの紙が貼られている。その火曜2限の欄には、暮石教授の哲学演習とあった。
「落窪さん。5分前ですよ」
 額がいつものように声をかけると、三土は気だるそうにゆっくりと顔を上げた。ややあって目を開けるが、まだぼうっとしている。その状態が30秒ほど続いたのち、三土はたずねた。
「額さん……あと何分ですか」
「4分ですね」
 聞くや否や、三土は机上のノートやプリントや辞書をリュックにしまい始めた。それが終わると起こしてもらった礼を額に言いながら退室し、すぐ横にある階段で教室のある1階へと一目散に駆け下りた。このとき、3分前。ここまでが三土の授業前の決まった流れである。

 いつものことゆえ手際よいが、傍で見ていた暮石は疑問を抱かずにはいられなかった。
「ここ9階なんだから、エレベーターを使えばいいのに」
「階段なら、いつも決まったペースで教室に行けるらしいですよ」
 それも一理あるかと苦笑してから、暮石は演習の資料を取りに自分の研究室へと向かった。私の授業は概して時間通りに始まらないからもう少しゆっくりすればいいのに……と落窪君に言ってみたいが、ルーティンがあるのなら仕方ないと暮石は思った。

 20人ほどが座れる小さな教室に、三土が入室した。疾駆したこともあって、完全に目を覚ましていた。10分ほどして暮石が姿を現し、哲学演習の授業が始まった。

   (完)