エクストリーム7年生 (3)
第二章・再履修生を救え
「君、もういいよ。次回の発表はきちんと調べて」
暮石教授の声が、小さな教室に響いた。口調こそ穏やかだが意味は容赦なく、言われた学生は座ったままうなだれることしかできなかった……といっても、三土のことではなかったが。
「哲学演習」の中盤、三土の隣にいる男子が発表する番になった。デカルトの『方法序説』を、事前に指名された学生が訳読と解説をする授業。原文を読んで訳文を述べるだけでは不十分で、暮石や他の学生からの質問にも答えられなければならない。しかし彼はフランス語があまりにもたどたどしく、市販の邦訳そのままで発表するあり様だった。当然それらの点を暮石に指摘され、文章に関連する知識(たとえば時代背景)を問われても答えられずにいた。
授業の流れが滞る様子に舌打ちや嘲笑を露わにする学生もいたが、三土はそういう態度が理解できなかった。失敗を責めることがそんなに楽しいのか、あなた方は失敗しないのか、と。晒し者になっている学生に代わって反論したかったが、それこそ授業が止まってしまうので何も言えず三土は歯がゆい思いをした。
授業が終わると、件の男子はよろよろと教室を後にした。顔面から血の気が失せており、三土はその様子が気がかりだった。すると、彼を馬鹿にしていた三人の男子学生が続けて出て行った。ますます気になった三土は──痩躯には不釣り合いなほどに大きなスポーツバッグを肩にかけて──続いて退室した。
「ぼ、僕が何をしたというんだ!」
聞いたことのある言葉が、3号館(文学部棟)の裏側に響いた。建物と壁との間にある場所は昼間でも薄暗く、往来もほとんどなかった。そこで、件の男子が三人の学生に取り囲まれていた。
「お前のせいでまともな授業を受けられなかったんだ。他の学生の迷惑になったんだし、お詫びの気持ちを見せてもらわないとな」
一人が掌を、男子のほうに差し出した。その意味は明らかだ。
「こ、これじゃまるで恐喝じゃないか!」
「そうだ、命があるだけマシだと思……」
「「エクストリイィィィィィィィィィィィィム!!」」
これまた、聞いたことのある大音声が周囲を震わせた。思わぬ横槍に三人組は行為を中断し、未だ姿を現さぬ相手を警戒すべく身構えた。男子は──恐喝から逃れた安堵と、これから訪れるであろう展開への恐怖とが入り交じって──囲みが解けた隙に逃げ出した。
すると建物の角から、黒いジャージの上下に赤いマスクを被った奇妙な姿の人間が、左手に赤い何かを提げて現れた。昨晩の……と三人組が思う間もなく、赤マスクは右手に黒いゴムホースのようなものを手にした。
「傷ついた学生に鞭打つ悪党ども、許さん!!」
言うや否や、赤マスクは消火器のレバーを握った。2、3メートル離れていたものの、三人組の視界は薄いピンク色に覆われた。おまけに粉のせいで目と喉をやられ、身動きがとれなくなっていた。
霧が晴れたときには赤マスクの姿はなく、足元に消火器が転がっていた。一人が悔し紛れに叫んだ。
「また邪魔されたか!」
「仕方あるまい。しかし今の問題はあいつではなく……」
リーダー格が見据えた先には、警察官が数人いた。目立たない場所とはいえ例の大声と消火器である、誰にも気づかれないはずがなかった。権力に盾突くのは無益と、粉まみれの三人組はやむなく抵抗するのを諦めた。
生きた心地のしないまま、男子学生は3号館のエレベーターに乗った。警察や大学に事情を話そうかとも思ったが、まずは現場から離れて身の安全を図りたかった。咄嗟のこととはいえ9階のボタンを押したのは、哲学科生としての習性かもしれなかった。頻繁に訪れてはいないものの、哲学研究室が平和な空間であることは知っていたからだ。到着を知らせるチャイムが鳴ってドアが開くと、すぐ近くにある入口へと駆け込んだ。
「こんにちは。久しぶりですね二階浪さん」
見覚えのある室員から声をかけられたとき、学生……二階浪留一(にかいろう・りゅういち)は、ようやく安心することができた。下がどんなに騒がしかろうと、ここは別世界のように穏やかな雰囲気であった。
「あの、さっき下で」
「聞こえましたよ。演劇サークルの稽古ですよね」
違うのですが……と額に言いかけて、二階浪は思い止まった。恐喝はともかく、「エクストリーム7年生」のことを言っても信じてもらえないような気がしたからだ。それにパトカーのサイレンも聞こえたので、誰か通報してくれたのだろうとも思った。
「それにしても……」
二階浪が目をくれた先で、一人の学生が机に突っ伏していた。前の授業で隣にいた、落窪三土である。暮石先生の演習では同じく再履修生だが、こっちが大変な思いをしているときにどうしてこうも呑気に寝ていられるのか……と、二階浪は少しばかり苛立ちを覚えずにはいられなかった。
(完)