(3)人生は牢獄?アヤワスカで感じたこと
そっと目を開けると、大地はまだ美しく輝いていた。月の光のようなやさしい光だ。大地に広がる幾何学模様を眺めていると、地球自体はわたしたちを、苦しめたり罰を与えたりなんて、そもそもそんなことを願ってはいないような気がした。
じゃあ、なにが、この地球で生きることを、囚人として生きることとイコールにしているんだろうか。わたしや、わたしたちが、いつか心底「本当の」自由を感じる日は来るのだろうか。「本当の」自由ってなんだろう。
もしかしたら、一生囚人として生きることになるのかもしれない。それくらい、この「牢屋」のシステムはゆるぎないもののように思えた。
でも、たとえわたしが囚人という立場から抜け出せず、
一生理不尽な抑圧と暴力を感じて生きることになったとしても。
せめて、囚人に棍棒をふりあげる看守にはなりたくない。
ましてや、刑務所をつくる権威になんて絶対になりたくない。
そして、棍棒で打たれている他の仲間を見捨てるような、
そんな囚人にもなりたくない。
でも、わたしの中には、暴力的な看守や権威、
そして、心を失ってしまった囚人もしっかり存在している。
彼らはわたしの一部になっている。
だからこそ、わたしは今小さな光を感じる練習を
させてもらってるんだなあ、と思った。
彼らが自分の中にいることを認め、全てかかえて進んでいくために。
そして、わたしの中でうまれたその小さな光は、コンクリートの小さな隙間から生えてくるタンポポのように、わたしが生きている刑務所の壁を少しずつ少しずつ破壊する。空高くそびえ、鉄条網がはりめぐらされた塀のその向こうに、綿毛を飛ばし続ける。わたしの中でうまれたその小さな光は、すでにいる仲間の存在をてらしだす。すでに同じようなことに気がついて、大小さまざまな反抗を続ける人たちや、植物や、動物や、海や、空や川。そして大地に染み込んだ、かつてここに生きていた者たちの祈り。
「ありがとうございます。」そうエルダーに声をかける。一人では、なんの光も見ることができず、ただうつに苦しんで終わっていたかもしれない。エルダーのみちびきのおかげで、わたしの憂うつはゆっくりと濃度を落としていった。「まだここにいなさい」そう言われて待っていると、今度は三人いるうちのシャーマンが二人も来てくれて、浄化のお祈りをしてくれた。なにかが体の中からすっと抜けていった気がした。ありがたさでいっぱいになった。
それから、わたしは祈りの輪に戻った。今夜はもう大丈夫だと思った。シャーマンたちの奏でる音楽に喜びと解放を感じるようになる。彼らの歌声が、空高く飛ぶ鳥の鳴き声へと変わる。
わたしたちは、「自由」がどういうものかは知らなくても、
「自由」があることは知っている。
その直観的な知を奪い去ることは、なにものにもできない。