授業と学級経営は両輪
授業と学級経営
授業と学級経営どちらが大事でしょうか?
一筋縄では答えられない質問です。
続けて問います。
授業力と学級経営力は比例するでしょうか?
私は、比例関係ではないと思っています。
学生の時、私ははっきり、「学級経営が大事」だと思っていました。チーム作りさえしっかりすれば、学びは教科書に沿って進めばいい。
しかし、その思いは現場に立って脆くも崩れ去りました。
授業の時間が圧倒的に多いのです。
子どもと接する時間のほとんどは授業でした。
授業で失敗したり、上手くいかないことが多い児童は授業中に顔が曇りがちです。
そもそもの考えとして「授業は教科書に沿って進めれば良い」。
この考えが間違いでした。
現場には、教科書通りに進んでもわからない子どもたちがたくさんいるのです。(だからこそ教師が必要なのですが)
初任の頃、先輩に
「まずは授業。そこが成り立てば学級も落ち着くから。」
そう断言された時は衝撃的でした。
授業が大事。学級経営は後からついてくる。
そう思うようになりました。
しかし、これもまた間違いでした。
授業の上達を目指して、「やり方」を求めました。
どう発問するか、どう立ち振る舞うか。
褒めて子どもたちを強化する。
趣意を説明し、行動に火をつける。
これらは非常に大切なスキルでした。
この「やり方」を知らねば、今の私はありません。
でも、何かどこかで上滑りすることが度々起きていたのです。
同じ説明を何度もする。
褒めれども響かない。
語っても伝わらない。
どうしてなのだろうかと思いました。
「授業が成り立てば学級も落ち着く。」ってほんとなのかとすら思いました。
「うなぎの謎を追って」の革命
ここまで、私は授業と学級経営をどこか独立したものとして見ていました。
「授業と学級経営は両輪」と言われるように、関係はしつつもそれぞれは別物であると。
その教育観が大きく変わったのか、5年目の冬、4年生の国語の授業でした。
単元は「うなぎの謎をおって」。教科書の書き下ろし文で、うなぎの研究についてドキュメンタリー調に書かれている説明文です。
そこまで私は、説明文は「問いと答え」の合致や「要約」を重視していました。
先行実践があり、授業のやり方としては良い方向だったと思います。
しかし、そこに疑問も感じていました。
もっと深く読めるのではないか?
この文から読み取るのはそれだけか?
それはある先輩からこんな言葉を教えていただいたおかげでもあります。
「説明文は情熱的に読め。物語文は論理的に読め。」
この言葉は衝撃でした。
そう思って読むと、どの説明文にも必ず「熱い作者の想い」がこもっています。
それは、「作者の言いたいこと」、つまり結論でもあります。
「うなぎの謎をおって」は研究者の記録であり、そこには熱い熱意がこもっています。
この説明文において、本題は「うなぎの謎」ではありませんでした。
そういう熱意を読み取らせたい。
そう思って授業に臨みました。
するとどうでしょう。
子どもたちは次々と筆者の熱意やこの文を読む4年生に伝えたかったであろうことを見つけ出します。
彼らが最終的に出した筆者の執筆動機は以下のようなものでした。
・諦めなければいつか叶う
・続けることの大切さ
・先人の偉大さ
そして、彼らはそれを自分の思いに紐づけて授業を終えました。
・ぼくはすぐに諦めてしまうことがあるから最後まで諦めないようにしたい。
・頑張ったご褒美にうなぎが虹色に輝いて見えたのではないか。
・過程があったから結果が輝いて見えたのだ。
説明文は抽象化され概念として彼らに残りました。
学びが生活に紐づいてくる。
生活とは学級経営であり、家庭での生活です。
授業が大きく彼らの心を動かしたと実感した授業でした。
授業中の活動の中に学級経営がある
この授業のまとめは最終的に「友達に発表すること」を目標としました。
ここまで、「熱意」や「頑張り」の大事さを何度も何度も学んできているものの、それを発表するとなった時に彼らは顔が曇りました。
自信がなかったようです。
この自信のなさとは、2つからきます。
①自分がうまく発表できないかもしれない
②友達に笑われたら嫌だ
どうでしょう。よくあると思います。
こここそ、学級経営です。
人間関係が良好で、失敗を恐れないクラスにするためにはこの2つを乗り越えるきっかけを教師が与えねばなりません。
①に対しては、自分の意見量でカバーしました。大体1人1000文字くらい意見を書く。
1000文字というと多く感じますが、書く項目を細分化したり、教科書の文を引用すればすぐに超えます。
大量の意見、話すこと、そして、教科書という絶対的な根拠が彼らに自信を与えます。
また、話し方のポイント2点と聞き方のポイント2点を伝えました。
話し方
①間 ②目線
聞き方
①姿勢 ②うなずき
なんのことはないよくある指導です。
ここに加えて、永松茂久氏の提唱する「魔法の傾聴」の話をしました。
こんな感じです。
うなずきには、二つのうなずきがあります。
一つが、小さいうなずき。
もう一つが大きいうなずき。
小さいうなずきは、小刻みにします。こちらは、何度もするうなずき。
もう一つの大きいうなずきは、納得した時や相手の気持ちがこもっている時にする うなずきです。
こうしてうなずきを上手く使い分けることで相手の話をうまく引き出すこ とができます。
つまり、聞く側の意識についてです。
AさせたいならBといえ。
②を解決するため、聞く意識を持たせたかったので「うなずき」という行動を意識させました。
彼らはなるほどとうなずき、さっそく挑戦します。この活動に積極的に取り組み、どんどんと勢いを広げました。
子ども達の先ほどの発表を忌避する考えはまさに授業と学級経営は両輪を表しています。
①自分がうまく発表できないかもしれない
→授業展開によって発表しうるのに十分な自分の考えを確保する。授業でカバー。
②友達に笑われたら嫌だ
→認め合う、うなずき合う学級風土の形成、学級経営でカバー。
ここでも、授業と学級経営は両輪だったのです。
最後の感想ではこんなことを述べていました。
・みんなの温かい感想がうれしかった
・あ!ちゃんと私の話を聞いてくれてるんやということがわかりました
・こんな聞き方を毎日できるようにしてみたい
こういうことが、「授業で学級経営する」ってことなんだなと思いました。
学校において、こうした人間関係を紡ぐのに授業が最も手早いし、1番チャンスがある。
でも、学級経営がある程度基盤に乗っていて、子どもたちが教師の話をうんうんと聞いてくれる状況でなければ、この状態はなりたちません。
どっちかではなく、どっちも。
そして、片方を鍛えるからといってもう片方が自然と上がってくるわけではないのです。
こと授業力においては間違いないです。
授業の中で学級経営しようという意識があるから、どちらも伸びていきます。
学級経営だけを伸ばしていっても授業に力を入れなければ自動的に上手くなることはあり得ません。
授業と学級経営は両輪
「授業と学級経営は両輪」とは、教育界でよく言われることです。
しかし、私はこの言葉は適切でないと思っています。
両輪というと関係しあっているもののそれぞれ独立しているものです。
もっと近い。
授業と学級経営は2つで1つ。
表と裏のようなものです。
授業で学級経営を鍛えるし、学級経営で授業を鍛える。
そのどちらでもあるのです。
かと言って比例関係にあるわけでもありません。
学級経営力だけを高めても、授業力だけを高めても、うなぎの授業は生まれませんでした。
どちらもに注力しる必要がありました。
片方を鍛えればもう片方も伸びてくるなんてものではないのです。
授業の中で学級経営しようとした結果、比例のようにどちらも伸びてくることはあります。
土居正博氏は、こうした授業の中で学級力の醸成を狙うことを、「裏のねらい」といいます。
知識技能や思考判断力の習得は「表のねらい」。
表もねらいつつ、裏もねらう。
授業と学級経営を一段階上から俯瞰したような教育観が「授業と学級経営は両輪」ということなのだと思うのです。