「好き」が分からない
美容院に行った時、自分の髪型も「お任せで」
洋服を買う時も「これは母親に似合わないといわれるのではないか」なんて考えが頭を過って、無難な服に落ち着いて
昨日のテレビ番組が面白かったかどうかも、友達の話の流れに合わせて
頭で見当をつけた自分の立ち位置に合わせて、学校のクラスでの振る舞いもさじ加減して
自意識がばれるのが怖かったからなのかもしれない。
期待外れになって、目の前の相手の表情が変わる瞬間を見るのが怖かったのかもしれない。
そんなことをずっと繰り返していたら、元々あったかもしれない自分の「こうしたい」「好き」が全く分からなくなっていった。
「好き」が分からない私は、「正解」を探すことに必死になっていた。
娘として、友達として、クラスメイトとして、学生として、現代を生きる女性として。
「正解」はなにか。正解を探して選択し続けた。
「好き」が分からない私でも恋愛は唯一自信が持てた。
その人を見て動いてしまった自分の心それ自体が恋心の証明となったから。
そこには私以外の誰も介在しない。
恋愛においては正解を探す必要はなかった。
好きな人のことならいくらだって友達に話すことができた。
けれどもこのところ、その恋愛すら分からなくなった。
いつからか、好意を向ける相手が「自分のこうなりたい」を投影させたものになっていっていた。
その人はなりたい自分そのものだから、魅力的に映って仕方がない。
でも同時にとてもとても苦しくなるのだ。
自分のこうだったかもしれないを全部持っている人。そうはなれなかった私。
なんだか今の自分を全否定するような気持ちになってくる。
今の自分はとてもじゃないけれど誰かと日々を歩むなんてことはできない。
「正解」を探すのに必死で、取りこぼしてきてしまった自分の「好き」「こうしたい」。言葉という形を与えないでいるうちに拾い出せなくなってしまった。形を持たない違和感ばかりが大きくなっていく。
早く自分の「好き」を取り戻さないと。
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