あの夜、一番素敵なふたりだった

駅から幹線道路を南に下ると、小さな橋がある。
舗装された川沿いの道を進んだ先にある、公園とも言えない小さな緑地を目指すのが彼とのデートコースだった。

共通の友人はいない。
素性も、たしかなことはわからない。
名前。いつも自転車で移動していること。小さな劇団に所属して、俳優を目指していること。あまりお金がなさそうなこと。
彼について知っているのはこれくらいだったけど、これくらいでよかった。

森を歩くとどこからか、頭に落ちてくる小石のように、彼は表れた。飲みすぎた帰り道、最寄り駅から自宅までわずか5分の道で座り込んでいた私に、彼が声を掛けたのだ。彼の自転車に私の鞄を預け、彼が買ってくれたペットボトルの水を飲み、鋭いつもりだった自分の警戒心がまったく働かないことを不思議に思いながら、家まで送り届けられた。
玄関先で別れ際、もう一度会いたいと言ったのはどちらだったかは覚えていない。だけど、彼はすごく引力のある目をしていたから、出会い方とか、常識的にとか、危機管理とか、もう全部どうでもよくなって、一時の気の迷いに甘えることにした。

小さな劇団で夢を追い、バイトをしながら暮らしている彼は、公園デートが好きだった。私たちが出会った駅前から歩いて5分。彼は自転車を押して、私はその横を歩いた。大抵仕事帰りに待ち合わせることが多かったから、右肩の鞄が重かった。
「ちょっと涼しくて気持ちいいから、ビール買ってこっか」
公園で缶ビール。そんなデートしたことなかったけど、それがすごく素敵なことのように感じた。お店を予約して、おいしいご飯を食べるなんてステレオタイプにはまらない、ちょっと粋な時間。初夏の風を感じる、偶然出会った二人。完璧じゃないところが、完璧だった。

今よりもビールの種類に詳しくなかった私は、コンビニにこんなにたくさんの種類の缶ビールが置いてあることに驚いた。目移りしている横で、彼はすっと扉を開けて、500mmの缶を二つレジに持って行った。
彼がビールを飲むことも、多分ペースが早い方だということも、今日初めて知れた。家で父が飲んでいるビールとは違う種類を選んでいて、今度こっそり買っておいてみようと思った。

本当は、缶ビールはそんなに得意じゃない。3%くらいの甘いチューハイが好きだった。少し無理して選んだビールは最後まで飲みきれなかったけど、ベンチで足を伸ばしながら乾杯した一口目は、日常と非日常の間に私を溶かし込んでいった。

あれから5年。おしゃれなビアガーデンも、世界各地のクラフトビールが楽しめるお店も、私は知っている。彼の名前はもう覚えていない。劇団の活動の忙しさを理由に、連絡が取れなくなったあたりから、私も夢から醒めていった。だけど缶ビールを開けるとき、思い出すことがある。いつまで続くかわからない気の迷いに罪悪感を預けながら、ビールのにおいがするキスをした。この先ほかの誰とも味わうことができない、夏の苦み。

#あの夏に乾杯

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おださん
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