過去の自分が、心締め付ける
学生時代にちょっと書いた、Mediumのアカウントが見つかった。
敬語&語りかけスタイルで、独自の抽象論理を繰り出し、なんとも滑稽。
過去の自分の文章とは、なんとも気恥ずかしいものである。
もう使わないアカウントなので、削除をしたのだが、
地味に気に入っている文章があったので、自戒も込めてここに記そうと思う。
書いたのは…大4くらいかな?
みなさん笑ってやってください。
(タイトル忘れちゃった……)
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ライター志望なのに3日坊主でお馴染みを得ようとしてます、こなみです。
最近は色んなライターさんのコラムに刺激を受けて、書き続けることへの努力中です。
(お仕事ではないので、毎日スパンはさすがにつまりますが…...。)
今日は、私の中に長く根付く感情のお話をします。
私は目的をもって書店に入ることがあまりありません。
なぜかというと、それではあまりにもさみしいと感じてしまうからです。
書店にふらっと立ち寄り、目についた本を片っ端からめくってみる。
この行為が、私にとって至福なのです。
まるで世界中すべての知識を掌握したかのような感覚が、私を包むのですから。
……勘違いにも程がある思考ですね。
でもその源泉が気になってしまった私は少し考えてみました。
1 . 本(知識)が集合する場所だから
本は情報の塊です。
とるにたらないようなことしか載っていなくても、誰かがそれを必要とすれば情報となり知となるはずです。
本屋はいうなれば様々なジャンルの知を集めた泉で、そこに足をつければ体中に叡知が流れ込みます。
しかも、誰でもその権利を与えられているなんて。
2 知にお金を払う場所であること
「本に囲まれた空間を良しとするならば、図書館もまた同じではないか。」そう思う方もいるでしょう。
しかし私の中では別物なのです。
書店は得たいと思った知識にお金を払う場所であり、時に対価以上の知識を半永久的に手中に納めることができます。
この自分のモノとする感覚が、書店でしか感じ得ないのです。
なかなかに抽象的で、読んでいる人に申し訳ないのですが。
この感覚に共感+補足していただける方と出会いたい日々です。
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更新履歴を見てみると、今のnoteより頑張って更新していた。
このときの自分のモチベーションは、一体今どこへ。
Thanks photo: iriah2301