「嫌なことを避ける」のは悪いことではない
こういうことを考えていた。
嫌だなと思うことが繰り返し起こるとき、その反復により「慣れる」という考え方もあるけども、私はどちらかというとそういうのは「避ける」タイプなので、慣れることは無いなと改めて思った。
我慢が足りんと言われるかもしれんが、自分の信念に従い、するべき我慢としなくていい我慢は区別すべきだ。
以前は「嫌なことを避けること」を「逃げること」だと思い込んで罪悪感を感じてしまい、「我慢する」という選択をしていた。
しかし、それにより精神的に参ってしまい、不眠症になったり体調を崩してしまったので、「嫌なことを避ける」というのは果たして悪なのか?と疑問を持つようになった。
我慢していると、慣れる。
これは本当だと思う。
以前、肩こりがひどくて整体に通っている時に興味深い話を聞いたことを思い出した。
ある日、整体師さんがこんな話をしてくれた。
「人間は、痛みに耐えられるようになるんです。今、肩や首が痛くていらしてますよね。でも、それを放置してずっと過ごしていると、"これが当たり前なんだ"って思っちゃうんですよ。そしたら、痛みを感じなくなる。つまり痛みって、"身体が出してる危険信号"なんですよ」
これはストレスなんかも同じなんじゃないだろうか。無理に我慢を続けた結果、体調を崩したりする。それって、まさに"身体が出してる危険信号"じゃないか。
果たして、そこまでして「我慢」を続ける必要はあるのだろうか。
私は「良い我慢」はして良いと思っている。
良い我慢とは、自分が心から納得している我慢である。
つまり「それを成し遂げた時、得るものがある」というふうに、我慢するに値するものがあると自分が納得できている場合である。
例えば「今は苦しいけれど、これが終われば自分はひと回り成長できる!」とか「これは未来につながる投資だ!」とか「大変だけど、給料いっぱい貰える!」など。
「悪い我慢」は「これ我慢しても、何も良いことないな…」という場合である。
個人的には、このタイプの我慢はする必要がないと考えているので、できる限りその"嫌なこと"から距離を置くようにしている。
なので、私の「嫌なことを避ける」が発動するのは「悪い我慢」をしなければならない時だ。
勿論、生きていく上で悪い我慢をしなくてはならない時もあるが、その場合は自分で限度を設けるようにしている。
他人から「そのくらい我慢できるだろ」「他の人はもっと我慢してる」とか言われたとしても、他人は他人、自分は自分である。
自分の限度は自分が1番良く理解しているのだから、限度は自分自身で設定すべきだ。
人間は、楽観脳の人と悲観脳の人がいる。
よく、楽観的だの悲観的だのという、あれである。
楽観的な人は良いものが目に映りやすく、逆に悲観的な人は悪いものが目に映りやすい。
同じ出来事であっても、楽観的な人と悲観的な人では、見え方が180度違うこともある。
私はもともと悲観的な人間なので、悪いものが目に映りやすい。しかし紆余曲折あって、最近では良いものと悪いものが両方見えるようになってきた。
両方が見えるようになってから、「嫌なものを避ける」というスキルが身に付いたように思う。
実は、この「嫌なものを避ける」のは楽観脳の人に多いのだそうだ。研究の結果、楽観脳の人は無意識にネガティブなものを避ける傾向にあるらしい。
人間関係で言えば「相性が悪そうだな」と思う人には踏み込みすぎない、など。良くないことが起こりそうなものは、できるだけ避けるのである。
踏み込みすぎると、その人を「嫌い」になるかもしれないが、最初から距離感を保てば、嫌いにならずに済むかもしれない。
事前にリスクヘッジをするのである。
この考え方は、かなり使える。
悲観脳の人は、楽観脳の人の考え方を学ぶと多少生きやすくなると思う。ソースは私。
…そんなこんなで、最近、繰り返し発生する嫌なことがあって、そろそろ私の「嫌なことを避ける」が発動してしまいそうだ。
我慢したところで明るい未来が保証されているものでもないので、これは悪い我慢に該当するのだと思う。
どうなるかわからないが、結局は自分の人生である。後悔のないようにしたいと思う。
全く関係ないが、美味い味噌ラーメンが食べたい。