眠れないので自分の「生き甲斐」とは何か考えてみた
眠れない時は大体プログラミングのソースコードとか考えていると眠れるのだが、どうやら、今日はそれでも眠れないみたいだ。
恐らく、最近色々なことがあって、色々なことを決断して、それに向かって歩き始めたので、心がザワザワしているからだと思う。期待半分、不安半分である。
急になんだと思われそうだが、「自分は何のために生きているのか」と考えたことはないだろうか。
これは私が暇になると考え始めることの1つで、この疑問はこれまでに幾度となく私の頭に浮かび、私を悩ませたが、未だに答えが出せていないクセモノだ。
誤解があるといけないので念のため書いておくが、これは「こんな人生いやだ」「もう生きていたくない」とかネガティブなものではなく、所謂「自分の生き甲斐はなにか?」という実にシンプルな疑問である。
若い頃は音楽活動にどっぷりハマっていたので、その時の私ならば、間髪入れずに「音楽です」と答えていただろう。
若気の至りではあるが、当時は「承認欲求オバケ」と比喩しても良いほどの目立ちたがり屋で、多少注目を浴びていたのが気持ちよくて仕方なかった。
「これからもっと有名になって、音楽でご飯を食べていくんだろうな」なんて夢みたものである。
そんなに打ち込んでいたのに、今はどうだ。
歌はカラオケやアプリで録音し、殆どひとに聴いて貰えなくとも満足するようになった。
あれほど私を熱くし生き甲斐だと感じたものは、今ではちょっとした趣味のひとつとして、静かに私の傍らに佇んでいる。そしてたまにひょっこり顔を出しては、私に「歌を歌うと楽しいよ」と言って、マイクに向かわせるのである。
これは単なる推測だが、もし私に子どもがいたなら、子どもを育てることが生き甲斐になっていたかもしれない。私の中では「母親は自分よりも子を優先する」というイメージなのだが、もしその通りであれば、まさにそれは生き甲斐と言っても過言ではないんじゃないだろうか。…が、出産の予定はないため、残念ながら生き甲斐にはなり得ない。
恐らく、私にとっての生き甲斐となるであろう何かは、「誰かのためだけに」することではない。
それはきっと「誰かのためになり、自分のためにもなること」である。
これは30年ほど生きてきて、やっと気付いたことだが、私が真に幸せを感じる瞬間は、相手だけが幸福になった場合ではなく、"相手も自分も"紛れもなく幸福になった場合だ。
どちらか片方が幸せだが、どちらか片方が苦しむというような状況は、私にとっては苦行でしかない。
そういえば「魔法少女まどかマギカ」というアニメ作品で、とあるキャラクターが想いを寄せる男性のために自分を犠牲にし、悲しい結末を迎えていた。
そのキャラクターもそうだったのだろうが、私も、それでは真に幸福であるとは言えない。
「誰かのために」という意識を持って何かをしようとする時、それは「自分のために」しようとしていることだということを、私は知っている。
例えば先ほどの「まどかマギカ」のキャラクターの例では、「想いを寄せる男性のために」と自分を犠牲にしたのだが、その犠牲をはらった結果が"自身の望むものでなかった"ために、絶望し、悲しい結末となった。
絶望するのは、「自分のために」なることを(潜在的にでも)望んでいたからに他ならない。
なので、私が考えるに、恐らく私の生き甲斐は
「自分のためになり、自分が幸せだと感じること」をやっているだけなのに、勝手に他人も幸福になってくれている
みたいなものなんじゃないか、と思う。
つまり、自分が幸せだと思えることを片っ端からやっていけば、生き甲斐を見つけられるのかもしれない。
で、冒頭の話に戻るのだが、「その生き甲斐を探すためにも、そろそろ動き出さねば」と思い、ある決断をした、というわけである。
あっ、眠くなってきた。寝る。