【独り言】本当の意味の「友達」ってなんだろう
ぼーっとSNSを見る。「フォロワー」が友人たちと一緒にライブに行ったり恋人と一緒にイベントに行ったりしている。それを尻目にベッドで家からスマホ越しにそれを眺める自分。
天と地の差である。どちらがより幸せとかではないけれど
自分が好きで家の中でスマホを見ることを選んだけど
どことなく寂しさを感じました。
今私が何にモヤモヤしてるか、それは友達ってなんだろうか、と言うことです。
いつも仲良くしてくれるあの子は私と友達なんだろうか、そもそも友達ってどう言うものだろうか、友達って本当に信じていいのか。
なんでこんなことを考えるのか
私は大学1年生の冬に親友とも呼べる友達を亡くした。
その友達との付き合いというものは決して長いものではなかったけれど、それでも高校からの付き合いだった。
なんの連絡もなかった。
辛いとは聞いていた。
けれど、そのつらさを彼女の中から消してあげることができなくて
彼女の中で「この世から去る」と言う選択肢をとらせてしまった。
何が辛いかもおおよそはわかっていた。
自分の忙しさにかまかけて、あの子に時間を割いてやれなかった。
もう少しで韓国に留学に行くと聞いていた、メッセージでやり取りもしていた
私の実家にたくさん韓国のお土産を持って抱えて帰ると言っていた。
二十歳になったらチャミスルを飲んでサムギョプサルでパーティーしようって言っていた。
私が住んでいたのが横浜だったから、横浜中華街で食べ歩きして、カフェにも行こうって約束していた。
お泊まりも、コロナが落ち着いたらしようねって話してた。
まだたくさん韓国語教わりたいから、留学から帰ってきても行く前もたくさん教えてねって約束した。
叶えられなかった。
たくさんした約束、一つも叶えてあげられなかった。
私が悪かった。
家族の誰も知らない、彼女が辛いという瞬間も理由も原因も
私は知っていたのに
何も、なにも助けてあげられなかった。
久しぶりに会ったその姿は一つも変わってなかったけれど、顔色に血色感がなかった。
嘘だと思いたかった。
もう二度とその顔でその声で、私の名前を呼んでくれることがないなんて
思えなかった。
訃報を聞いた瞬間、咽び泣いた。
ないても仕方ないとは分かっていた。けれど、泣かずにはいられなかった。
その日の塾のバイトは正気じゃなかった。
夢のある、優秀で優しくて明るくて少し心配性な私のかけがえのない友人が、この世で最も残酷な死を遂げるとは思えなかった。なんで自分で自分を殺しちゃうんだ。
それもこれも全て、「まだ生きていたい」と思わせられなかった「友達」の責任だ。
親にも兄弟にも言えないことというものがこの世には存在する。何でもかんでも親や家族に言える方が稀ではないかなと思うのは私だけですか?
「言えないこと」を共有していた私の責任は重いと思う。彼女がなにに辛いと感じて、なにが悲しいと感じて、なにに怒りを抱くかを全てとは言わないが、理解していた。
それなのに
助けてあげられなかった。
出会ったのは、高校三年生のクラス。コロナになって学校生活が普通とは言い難い異質なものになっていたあの時。私はずっと話してみたかった彼女と初めて同じクラスになった。韓国語がとっても達者で、たくさん韓国の文化についても知っている彼女は私にとって「スター」そのものだった。憧れだった。憧れと同じクラスになったら話さないわけにはいかない。すぐに話しかけに行った。私の性格も相まって、二人の仲が縮まるのにそう時間はかからなかった。これまで話せなかった時間を取り返すかのように、仲良くなってたくさんの時間を一緒に過ごした。お互いの受験の対策も念入りに二人で行った。彼女と一緒に過ごした時間はとても楽しかった、辛いこともなにもなかった。
私のことを「언니」と呼んで慕ってくれた彼女。韓国語でその言葉は親しい間柄の年上の女性を呼ぶ敬称であるが、彼女の誕生日は2003年なので韓国に行けば私の方が年上になるのでそう呼んでいた。たくさん彼女人も先輩がいる中で언니と呼んでいたのは私だけだった。亡くなってから開いた彼女のLINEの名前も、私だけ언니だった。
そう、彼女にとって唯一のお姉さんは私だったのです。
自惚れでもなんでもいい。けれど、彼女が誰か後輩のお姉さんであっても彼女が「妹」になって接することができるのは私だけだったのです。
そんな唯一の姉に忙しいという理由で話もなかなかできず、彼女の性格がらため込んでしまったのでしょう。本当に酷なことをさせたなと3年経った今でも後悔しています。
本当に友達なら、死の前に少しくらい、何かを残してくれても、本当に死んでもいいの赤と問うてもいいじゃないか。なんで、なんで相談してくれなかったんだ。
心を、許してくれてなかったのか。
友達じゃ、なかったのかな。
友達だったはずなのに、そんな予兆もなにも捉えられず彼女をみすみす死なせてしまった生きている自分にそういう考えが脳内を頻繁に過ぎる。ここ最近は特に。
一緒に励まし合える友達がいないことがこんなに心に穴を開けるなんて思っていなかった。
誰と一緒にいても私は私じゃないみたいで、心の底から信用することもできない。
適度な範囲内で相手に歩み寄って、自分の核には触れさせたくない。
そんな自分勝手な考えが私を占拠している。
本当の友達ならこんな辛いことがあった、っていうことができるはず。
でも言えていないということは私には友達がいないのかなと思ってしまうことがある。
友達がいない、なんていうと今私のことを「友達」と思ってくれる人には大変失礼なことにはなるのだが、「友達」に対して変に気を遣ってしまっている時点で私がその友達のことを信用していないのは明らかだろう。
友達のことを信用してあげられない弱い私でごめん。と、思い悩むたびに考える。
なにを考えているかわからないと言われた事はないけれど「なんでもひとりでできちゃう」は言われる。
それに拍車がかかったのは間違いなく大学1年生の彼女の死からである。
誰にも期待しなければ
誰のことも信用しなければ
誰にも頼らなければ
負う傷も少ないだろうと。
そうして出来上がったのが「私」
誰にもうまく頼れなくて、
誰に対してもうまく愛情表現できなくて
寂しく一人で「ひとり嫌だな」ってぼやいてる
自分勝手なモンスターが誕生する。
私はこれからの人生も彼女に対する後悔と共に生きなければならないのかと思うと
とっても気が重い。
早くそちらに行きたいです。
ああ、また結局何が書きたいのかわからない冗長な文章になってしまった。