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「やらない善よりやる偽善」という言葉が嫌いだ

どうやら20年以上前から存在する言葉のようです。私はこの言葉大嫌いなんですが、未だにいわゆる知識人にカテゴライズされる著名人なども使われるなど見るにすっかり根付いてしまったように思います。

こういう言葉が使われる時というのは、震災のようなときにお金に余裕のある著名人が自分のお金を多額に寄付したような場合、「売名なんだろうと思うけど結果的に被害者の為になるなら良いよね」みたいなコンテキストで使われます。

なんだけど、売名のどこに問題があるのか。

被害者をダシにしているようで気に食わない部分があるんだろうとか、カッコつけてるようで面白くないとか、そういう感情を持つ人が出てくるのは想像に難しくないのですが、そんなものが善を否定するはずがない。

そもそも善って何でしょう。

「善い行い」ではある訳ですが、それは誰にとってか。相手にとってです。相手にとって良かった行為なら善になるのです。

もっと言えば善は結果論だと思います。相手にとって良いと思ってやったことでも、そうならなければ善にはなりません。

例えば、「人間は生きてるから苦しむのだ。苦しみから解放してあげたい」と心の底から思って人を殺す人がいたらこれは善か。「あなたは私と結婚した方が幸せになれるんだ」というストーカーは善か。そこまで極端じゃなくても、思い出にとっておいた古いものを「汚かったから捨ててあげたよ」みたいな善意の行為は善と呼べるか。

清い心が人を救う訳じゃない。相手の為になってるかどうかが重要。もちろん、清い気持ちが問答無用で嬉しい時もありますが、最終的に相手がどう捉えるか次第。相手次第です。

だから、第三者がしゃしゃり出てきて「それは偽善だ」とかいう必要はなく、偽善と捉えるべきではないのです。

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