2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」の往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの6通目の書簡で、WS二回目のレポートです。


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金川様

前回のWS以降、参加者の皆さんの日記が随時更新されていきました。

自分の日常があるのであまり皆さんの日記を気にしすぎないようにしようと思いつつも、やはり気になってしまい、毎日のようにその進捗状況を確認してしまう日々でした。最初ということもあり「皆さん毎日つけてくださるかな」というところが一番の気がかりでしたが、杞憂でした。

そして内容を読めば読むほど、皆さんが忙しい日常の中、このWSのために時間を割いて下さっているのだなということが分かり、嬉しいな、ありがたいなという気持ちになりました(立場上、僕が「ありがたい」というのは変というか、おこがましい気もしますが、でも本当にそういう気持ちでした)。
そして、皆さんの日記がどれもとても面白いですね。
文章だけ取っても、フォントも文字のサイズや色もそれぞれに違いがあって、書き方も毎日タイトルをつける方がいたり箇条書きの方がいたりとそれぞれの個性が出ていてとても良いです(そのことに言及して下さった参加者もいましたね)。


さて、2回目のWSは「何を書いて、何を撮ったか」をテーマとしました。

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まず金川さんが、この2週間日記をつけ、写真を撮って感じたことを話しました。続いて参加者の皆さんにこの2週間の感想や書きながら逡巡したことをそれぞれ話していただき、それに対し金川さんが気になったことを尋ねる形でWSは進みました。

最後にこれらの日記を「広く一般に」公開することについてみんなで話しました(現在は、参加者+金川さん・私によるグループをつくり、その限られた範囲内で互いの日記が読み合えるようになっている)。



今回のレポートを客観的に書くべきなのか主観的に書くべきなのかとても迷いました。どのように書いても、この授業の面白さは書ききれないと思いつつ、どうするのがベストなのだろうかと悩んだのですが、ここに記されるのはあくまで僕の感想でしかないのだ と諦めて、皆さんの日記を読んだ感想や授業中に感じたことなどを、取り留めもなく思うままに書こうと思います。

まず、授業中にも発言しましたが、日記を読んでいて一番ぐっと来たのが、普段それなりの文章量を書いている参加者が、二行だけしか書いていない日の日記でした。大きな出来事が起こった直後の日記で、そのことについてきっと沢山の感情があったでしょうし、書くと決めて書き出したならとめどなく言葉は溢れただろうに、「書かない」という判断をされたこと。その理由が「公開されることが前提の場所だから」であったなら申し訳ないなと思いつつ、理由はそれだけでは無いように感じ、その時の気持ちを聞きたくて(失礼だとはわかっていながら)お伺いしたら、「文章にして整理してはいけない気がした。その時のぐちゃぐちゃした感情はそのままにして持っていないといけない気がした」というニュアンスのことを答えられました。そういう気持ちを抱えたことが僕自身も何度もあるし、お話を伺ったことでその二行の日記にさらに惹きつけられるように感じました。今これを書きながらもその時のやり取りを思い出してエモーショナルな気持ちになっているのですが、言葉にするのはとても難しいです…

参加者の皆さんが沢山面白い日記を書いてくださっているのにも関わらず、「書かれなかったこと」に読み手である僕が勝手に思いを馳せてぐっと来た、という話を最初に書いてしまいましたが、今はまだ皆さんの日記の具体的な内容にあまり言及したくないなという気持ちもあり、このことを書きました。


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基本的には日記に書かれている内容をベースに会話が進んでいきましたが、日記には書かれていないことに話が及ぶときもありました。そういった話も面白かったですね。今回のWSで話して下さった内容と重なってしまってよいので、いつか気が向いたときに日記にも書いてほしいなと思いました。
例えば(これはいずれ書こうと思っていたとおっしゃっていましたが)日記に日付とともに時刻を記載している方の、その時刻の意味の話や、別の方の、仕事でデータ(数字)のような確固たる理由に基づいた分析・判断をしているせいで自分の感覚や自分の内なる声に耳を傾けることが下手になってしまっていると感じた話などは興味深かったです。

また「やり出してみたら表日記と裏日記が出来た」という話も面白かった。これは、「まず、PC上で(自分だけが読める形で)日記を書いていて、公開できることは黒字、自分の中にとどめたいことはグレー字に分けていたけれど、googleドキュメントに移す際に『これくらいならいいか』とグレー字から黒字に変わったものが結構あった」という話で、金川さんが仰っていた「少しずつ自制が外れる」感覚を味わっていたのかなと想像しました。また、このお話を聞いて改めてその方の日記を読むと「あ、この日はグレー字範囲の日記がたくさんあるのかな」などと想像できて、それも面白いです。
ここまで書いて、僕は書かれている言葉の背後にある「書かれなかった」感情や気持ちに興味をそそられるのだなと思いました。金川さんが授業の途中に仰ったフランスの文学者?の言葉(背後に「明らかに出来ない何か」を抱えていて、そのことを直接記述はしないけれど、実はずっとそのことについて書いているような文章がいい文章だ、というようなニュアンスだったように思います)を正確に知りたいなと思いました。


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もう一つ強く心に残っていることが、今回のWS中に何度か出てきた「日記に他人のことを書いたとき、そこには書き手の眼を通してのその人しかおらず、本当のその人はいないのだ」という話です。ニュアンスは違えど何人かの方がそのことに言及されました。
金川さんは「書きたいけれど書けない関係がある」と書かない選択をされたことをお話しされていましたが、「昔、家族のことをSNSに書いてすごく怒られたので、今回は何のことかわからないようにぼんやりと書く」と話してくださった方や、「(書かれている)本人はあまり何も思っていないみたいだけれど、どうしたって書き手である自分の視点からの話になってしまうので、不安もある」と話してくださった方、「誰のことも傷つけずに、書くことはできるのだろうかということを考えていきたい」と話して下さった方などがいらっしゃいました。
とても難しい問いだけれど、まず、日記にわざわざ書こうと思うくらい大切な人のことを皆さん書いているわけで、その人を批判しようとかその人との関係を切りたいとか、そういうものは今のところ一つもないし、今よりも良い関係にしたいと望むからこその葛藤で、とても優しくて、愛ゆえの葛藤だよなと感じました(金川さんのだけは少し違う気もしますが…)。一方で自分が書かれた側になったときのことを考えてみると、そういった前提を理解した上でも、納得できない書かれ方というのはあるし、(どんな書き方であれ)そもそも書かれたくないという人もいるなと思いました。だから、なんだか歯がゆいような切ないような苦しいような何とも言えない気持ちになりました。
同時に、自分のことを振り返ると、5月にお試し日記を金川さんと二人でやってみて、僕は他人について書けない(というか、「これは書いていいのだろうか」などと考えることがストレスなので書かない方が楽)と感じていたのですが、言い換えると「それでも『書きたい』と思う人」がそもそもいないんだな…と思い知らされました…。


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写真も参加者それぞれに特徴があって面白かったです。日記の補助になるような説明的な写真もあれば、日記とは全く関係のない写真もありましたし、対象との距離が近い写真もあれば、視野が広く情報が沢山含まれている写真もありました。たくさん撮って、そこから毎日一枚だけをセレクトして載せている方もいれば、その日撮った写真の枚数=日記に載っている写真の枚数だった方もいらっしゃったと思います。
日記の中に、写真を撮ることを意識していると「(普段は)周りを見ることなく歩いていたんだなぁ、と感じる」と書いて下さった方もいらして、こういう「少し視点が変わるだけでいつもの街が違って見え、普段は気が向かない箇所が気になりだす」感覚は僕自身とても好きなので、同じような経験をされた方がいらして嬉しく思いました。
また、他の参加者の写真を見て、「日記と関連してなくてもいいんだ。もう少し気楽に撮ってもいいんだ。」という気持ちになったと仰った方もいましたね。
写真に関しても、皆さんの撮るものがこれからどう変化していくのかとても楽しみです。


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最後に参加者の皆さんと今回のWSの日記をどう「公開」するかについて議論しました。
「公開」に対するこちらの迷いを提示する形で皆さんに問いかけたのですが、沢山の意見を貰えてうれしかったです。我々が想定していなかった意見もありました。

結論から言うと、WS期間中はこの閉じられたグループの中だけで日記を共有し、最後の成果発表展示にて、会場に足を運んでくださった方だけに見られるようにするのが良いのではないか(Webを通して広く一般に公開することはしない/但し、個人として、自分の日記を別媒体(普段やっているnoteなど)に発表したい人は、発表しても良い)というところに落ち着きました。個人的には、とても良かったかなと思っています。

また、議論を聞きながら、参加者の皆さんがお互いの日記が読み合えるという、いわば互いの核心に触れあえる場でありながらも、自分から語ること以外は開示しなくてよいこのコミュニティをとても貴重な場ととらえて下さっていることが感じられて嬉しかったです。そして(この二回目の授業が始まる前の時点では)一回顔を合わせただけなのに、お互いの日記を読み合うということはこんなに親密な気持ちにさせるものなのかという驚きもありました。勿論、参加者によってその距離感は様々だと思いますが、僕の想像以上にこの場所を信頼して下さっている方が多いんだなという感覚を得ました。

Webを通しての公開をやめようと決めたことで、皆さんの日記に変化がうまれるのかも気になります。金川さんは「もう少し書けることが増えるかも」というニュアンスのことを仰っていましたね。

そういえば、最初の2週間で「怒り」の感情を記述された方は少なかったように思います。「自分のためだけの日記をつけているときと比べて、記述内容から愚痴が減った」と仰った方もいました。それはとてもいいことだなと思いつつも、僕自身のことを省みると、わざわざ「自分のために」文章を書きたいと思ったときは、いつも大きな「負」の感情に支配されたときでした。そのどうしようもない怒りや苦しみを吐き出さなければやっていられない時に、その感情を逃がすために、文章を書いた気がします。
 限られたメンバーとはいえ、人に読まれる文章なので自制する方が多いように思いますが、仮にそういった愚痴や怒りが現れても、受け入れられる場にこのWS空間はなっている気がします。

「他人の体験を追体験して、他人と自分が同一視されるような感覚になる」「1回会っただけなのに、他人の日記を読んで(その書き手に起こったことを)心配したり、安心したりした」という発言がありましたが、確かに似たような感覚を僕も感じており、これはとても不思議な感覚でした。金川さんは「日記を読んでいると、皆さんのご職業などが分かりそうでわからない」とも仰っていましたが、そういうわかりやすい肩書を持ちこまなくてもよい、自分が語りたいこと・語れることだけを語る場をつくれたことは良かったんじゃないかなと思っています。なんだかそれが、この不思議な感覚に繋がっている気もしています。


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また長くなってしまいました。


金川さんからも今回の授業を振り返ってみての感想や授業中に言いそびれたことなど、簡単で良いので貰えると嬉しいです。

2021/06/20 ななめな学校ディレクター 細谷


■ひとつ前の書簡はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

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