成果発表展とトークイベント
金川様
お久しぶりです。
この書簡を書くのも久しぶりです。
何とか年内に!との気持ちで重い腰をあげました。(が色々あって公開したのは… もうGWになってしまいました…)
前回の書簡が8/20のものでしたので4か月ぶりです。
成果発表展を8/28~9/12までの2週間開催し、その初日にはWS参加者の皆さんと一緒に振り返りのトークイベントも開催しました。このあたりのことをすぐ振り返っておけば良かったのですが、終わってしまうと意識が他のことに向いてしまって…ダメですね…。
発表展の初日に展示会場(ギャラリーいなげ)にてトークイベントを開催しました。まずはそのトークイベントから振り返ってみます。
「トークイベント」は参加者の皆さんとWSを振り返る内容だったのでそのことについて記載し、「成果発表展」はWSの状況を全く知らない来場者(もちろん往復書簡を読んで下さっていたり、ななめな学校にてこういった内容のWSが開催されていることを知っていらっしゃった方も少しはいたと思いますが…)に今回の試みがどう映ったのかという点を考えてみたいと思います。
トークイベントはコロナ禍ということもあり、WS参加者に一人ずつ順番に前に出てきていただき、金川さんがインタビューしていく形式で進めました。
最初に少しだけ金川さんによるWSの振り返りや聴衆(人数は制限されたが会場に一般聴衆(事前申込制)を集めて開催された)へ発表展の説明があり、その中で金川さんは「写真の在り方とテキストの在り方は全く違う。『日記をつける・写真をとる』というタイトルがついているが、これは『サッカーをする・野球をする』くらい違う。そのことがWSを通してわかった」とおっしゃいました。
参加者へのインタビューでは
・何でこのWSに参加しようと思ったか
・これまでに日記を書いたことがあるか
/それを公開するなど、何かしら自己開示した経験があるか
・日記を公開することについて
が語られましたが、最も時間が割かれたのは「日記を公開すること」についてでした。WS期間中はWS参加者の中だけで日記を読みあえる状態にしていたのですが、その2か月間で何を感じたのか、またそれを成果発表展で誰もが読める状態にするのにあたって考えたことや心境の変化について言及する参加者が多くいました。
なお、「職業や年齢などの肩書、素性が分かった方が発表展のオーディエンスに対して親切だし、オーディエンスが日記に興味を持ちやすい・読みやすいことは分かっている。けれどあえて、日記に肩書などのわかりやすい説明を入れることは求めていない。なのでこのトークも素性は明かさずに進めていく。」と金川さんが説明しました。
皆さんのトークの内容を簡単に類型化することはできません、かといってひとりひとり詳細に書いていくというのも違う気がしますので、印象に残った発言を箇条書きで記してみます。
・伝記など他人の人生を読むのが好き。でも、伝記は振り返りで、日記はリアルタイム。そこが違う。思いが詰まってる。他人の人生を一緒に歩んでいる感じがあって楽しかった。
・他人の日記は面白いのに自分の日記はつまらないと感じた。なんでかなと考えたら、自分の日記は行動記録だった。一方、他の人の日記は気持ちを書いてある。自分の気持ちに向き合っていなかったのかもとも思った。「好き」「楽しい」だけでなくてその裏にある理由と向き合えるともっとこれからの人生豊かになるかもしれないとこのWSを通じて感じた。
・一日一枚の写真を載せた。写真を選択するという行為の中で写真の持つ時間の厚みを感じた。写真が、その写真を撮った「瞬間」以上の時間を内包しているということを感じた。そう感じたのは写真と一緒に日記を書いたからかもしれないし、この2か月の間、皆さんの日記を読んで、いろんな人生の時間を感じていたからかもしれない。
・母親として「わたしこれでいいの?」と思うことがあって、そういった出来事を自分は日記に書けなかったけれど、(別の参加者である)Aさんはその葛藤や「こんなんじゃいけない」という思いを書かれていた。それを読んで自分は「Aさんはひどい人だ」とは全く思わなかった。むしろすごく頑張っていると感じた。だから自分で自分に制限をかけてしまっているだけかもしれない。もう一回最初からWSをやったらもっと自由に書けるかもしれない。
・見て欲しい気持ちはあるけれど、「この人にこれは知られたくないけれど、この人にはこっちを知られたくない」とかがあって、SNSだと自己開示するのは難しい。このWSでも最初は同様の気持ちがあって、“裏日記”をつくっていた。自分だけが見られるファイルに一通り書きたいことを書いて、一週間後くらいにそれらを読み直して、出せる部分だけを共有のgoogleドキュメントに移していた。WSが進むにつれて段々裏日記が不要になって全てさらけだせるようになっていた。
・自分のことをオープンにしたい気持ちと「こんなことを書くのは憚られる」というストッパーみたいな気持ちが同居している。
・最後に読みなおした時に、最初の頃はストッパーがかかっていて今ならもっとかけるなと思ったけれど、「書けなかった」という記録を残すため書き足さなかった。
・展覧会に向けて本にする時に、読んでくれる人に楽しんで貰いたいとかそういう気持ちがうまれた。自分のための記録なら製本しなくていいから。
・書かない方が簡単。慎重だし思慮深いように感じるけど、それだけじゃないんじゃないかなと思う。「自分に正直なことが、その人にとって何より重要なのだ」ということが一番大事なのではないか。
・作って発表することがナチュラル。発表することに対しての疑念がほぼない。読んでくれる人に委ねているところがある。嫌われてもいい。逆にそういう「やばい」部分を見せてなお、「おもしろい!」と思ってくれる人に好きになってくれたら嬉しい。ただ、皆さんを見ていると親になると変わるのか?規制する内なる声があらわれるのか?とも思う。今の自分は皆さんに比べたら身軽かもしれない。
・発表展に際して、日記を一部黒塗りした。日記はふつうあんまり言わないこと、素に近いものを読めるところが面白いと思っている。だから出せないことは消すけど、無くすのではなく、「何かを書いたこと」は残しつつ、黒塗りした。
これ以外にもたくさんのことが限られた時間の中で語られました。
その中で私が改めて感じたのは、皆それぞれにこの2か月間に色々な出来事があったのだということ、そして日記を書くにあたって悩むポイントもそれぞれに違うというのだという当たり前のことでした。そして日記を書きっぱなしにするのでなく、こうやってまとめなおすこと、振り返ってみることは大事だなとしみじみ思いました。トークイベント時点では「過去」になった、WS期間中のことを皆さん客観的に話されていたし、日記を書くことに対する気持ちの動きを時系列で説明される方もいらっしゃって、参加者皆さんにとっても我々にとってもこのトークイベントは貴重だったと思います。
次に成果発表展についてです。
まず、成果発表展会場で配った案内に記したお互いのテキストを再度振り返ってみます。
自分のことを記録すること、自分のことを語ることがこのワークショップのテーマです。自分のことを「自分のために記録すること」と「他人に向けて語ること」はちがうことのような気がすると思います。でも、この二つのことは地続きであり、きれいに切り分けられるものではないというのがこのワークショップの基本的な態度です。
書くということのなかには、必ずそれを読む他人の存在が含まれています。絶対に誰にも見せないつもりでもそうです。何かかたちにして残すというのはそういうことです。例えば、自分のためだけにつけられている日記だとしても、それを読む未来の自分というのは、それを書いている今の自分から見ると一人の他人だと言えると思います。
このことは写真においてはより顕著です。写真を撮るということは、カメラという他人と一緒に見ることであり、カメラという他人に代わりに記録してもらうことだと言えると思います。写真を撮る自分とその写真を見る自分とのあいだには乖離が生じます。
できるだけ時間をかけていろんな参加者の日記と写真を読んでいただけるとうれしいです。
金川晋吾
他人の日記を読んだことがあるでしょうか。読んだことがあっても、それは芸能人だったり小説家だったり、あなたがその存在を多少なりとも認識している方の日記だったのではないでしょうか。
今回ここに展示されているのは、多分そのほとんどがあなたの知らない人の日記です。
知らない人の日記を読むと秘密を覗き見しているような気分になったり、自分の経験や感情と似た場面に出くわして書き手と自分が重なるような気分になったりすると思います。
私は、2か月という短い間なのに11人の人生が集まるとこんなにも多くの出来事(事件)がおきているのかと感じました。そして、もしかしたらそのうちのいくつかは、こうやって日記として文章に残さなければ本人のなかで消化され、なかったことにされてしまったことかもしれないと感じました。
そういった些細なことを記述し、公に開くことで、書き手は、普段はなかったことにしてしまっている些細なことが実はとても重要なことだと気が付くかもしれません。
読み手側も、読んでいて面白かったり心動かされたりするのは、そういった些末な吐露だったりします。
11冊もあるので、きっとあなたに合う(読みやすい)日記も合わない(読みにくい)日記もあると思いますが、どの日記にも綴られているのは飾りのないリアルな言葉です。
捉え方は様々だと思いますが、リアルな言葉で綴られた「些末な吐露」が、なにかしらあなたにも重なったら嬉しいです。
ななめな学校ディレクター 細谷
金川さんは「『自分のために記録』していても(記録した時点で)必然的に『他人に向けて語ること』となってしまう」というこのWSの根幹を説明してくださいました。
私はそれに補足する形で、この発表展を見に来た方へ向けたメッセージを書きましたが、いま改めて読むと「他人の日記なんて興味を持てないかもしれないけれど、11冊のうちどれかはあなたと重なるかもしれません」というだいぶ弱弱しいステートメントですね…
実はこのステートメントをどう書くべきなのか、とても悩みました。それは私自身が(2か月にわたるWSを経た後でも)「知らない人の日記を読む」ということが面白いのか面白くないのかがわからなかったからで、CHIBAFOTOついでにたまたま立ち寄った方に「この展示は面白いよ!絶対見るべきだよ!」と言い切れる自信がなかったからです。
“記録した時点で、それは個人の中にとどまらない開かれたものになるのだ”という主張は理解できますが、それでも「“個人的な記録として書かれた日記”を、積極的に見知らぬ人に『見て見て!』と薦めるのが果たして正しいのだろうか」という葛藤があり、来場者が「たまたま見つけて開いてしまった」くらいの出会い方の方がいいのではないか、そのまま引き込まれて読んで下さったら嬉しいけれど、そうならなくても仕方ないな、くらいの気持ちだったのです。
トークイベントの最後に、少しだけ金川さんと私で発表展についてお話ししました。その中で私は金川さんに「他人の日記を読むことの面白さとは何か」を伺いました。実はそれはシンプルな私の疑問であり、「”全ての日記がおもしろい”と言いたい気分」という金川さんはどこにその面白さを感じているのかを知りたいと思ってお聞きしました。金川さんの答えは、答えのようであり直接的な答えではなかったようにも思います。トークイベントにて語られた金川さんの答えはここでは書きません。金川さんはその後の半年間もいろいろと日記にまつわる場所に関わっていたので、またその答えも今は変わっているように思います(ですので、そのあたりの金川さんの考えを返答もらえたら嬉しいです)。
とにかく、私はこの発表展を通して、何かしら「他人の日記を読む」ことの面白さを見出したい、と思っていました。けれど、WS参加者の皆さんは、もう私にとっては“他人”ではなくなってしまっていました。
では、見に来てくださった方は、どんなことを感じたのでしょう。14日間で延べ870人程度の方がご来場くださり、アンケートにて様々な感想をいただきました。とてもありがたかったです。
こちらも簡単にまとめること(類型化すること)はできないですが、
「すべての日記の中に、日記を書くことや読むことへの言及があった」
「それぞれが日記をどんなふうにとらえているのかが受け取れて面白かった」
という内容が複数ありました。公開する前提で日記を書いたこと、「日記と写真のWS」として日記を書いたことが、参加者の皆さんにそれぞれにとって「日記とは何か」を考えさせるきっかけとなっていたと思いますが、客観的に「日記とは」についての記述がある日記というのは、確かに普通の日記とは違うかもしれません。
もう一つ、「他人の日記を読んでしまってもよいのだろうか、とドキドキした」という声も複数ありました。「最終的に外部への公開という形をとることができたのは稀有なことだと思う」とご指摘くださった方もいました。確かに他人の日記を読む機会は普通に生きていたらほとんどないと思います。最近ではSNSやブログで「日記」を公開されている方もいらっしゃいますが、webで読むのと紙媒体で読むのでは(同じ文章だとしても)「秘密を覗き見ている感」がだいぶ違うように思います(この点はトークイベントにて金川さんも指摘されていましたね)。また、今回展示した日記の中には「webでは公開したくないけれど、わざわざ会場まで訪れた人、そこでページを捲ってしまった人になら見られても仕方ない」と腹をくくった参加者のものもあり、そういった詳細はどこにも書いていないものの、会場に「日記は撮影禁止」と案内を示したことなどから、そこはかとなくそういった切実なニュアンスが来場者にも伝わっており、その結果「日記を開くのにドキドキした」という気持ちが生まれたのだと思います。
アンケートの中で私が特に印象に残ったのは次の二つでした。
・(他人の日記ではなく)『わたしはわたしの愛する人の日記が読みたいのかもしれない』と感じた
・日記と写真はとても優しく、書いた人に会いたくなるふしぎ
成果発表展では、私は「他人」の日記を読むことができませんでしたが、日記屋月日さんにて全く知らない人の日記に触れたとき、私はこれら二つと同じような感想を抱きました。真逆の感想のようにも思えますが、これら二つのことを「同時に」想ったのです。
私はずっと、興味のない人には興味が無くて、「興味のない人の日記を読んでも面白いとは思えないだろうなぁ」と思っており、月日さんで見知らぬ人の日記を捲っても、すぐに戻してしまうものが多かったです。しかし、綴られている(見ず知らずの他人の)なんでもない日常に引き込まれてしまう日記もありました。金川さんの「志津さんは私だ」というような、同一視まではいかないけれど、「こうやって日々を紡いでいる人がいるのだ」という励ましを(勝手に)感じたのです。全く知らない他者なのに、日記に書かれたとても柔らかい部分に触れて、まさに「作者に会ってみたい」ような、絶対に会いたくないような不思議な気持ちになりました。
その時、「おもしろいなあ」と感じたのですが、そこにあったのは「ああ、自分は知らない他人の日記を読んで、その日記の作者に興味を持ったりするタイプの人間なのだ」と実感する面白さであり、驚きでした。また、見ず知らずの人だからこそ重なってしまったり感化されたりすることがあるのだとも気づかされました。知っている人の出来事だと、どうしてもその事象について客観的に判断しようとする自分がいる(第三者としてアドバイスするような視点でみてしまう)のですが、全然知らない人の出来事や心の動きに対しては、素直に共感したり、心を動かされたりできるのだなと。
トークイベント後のアンケートに「シンプルに、みんな生きている、という自明なことを、あらためて認識するおもしろさがある気がします。みんな生きている、って、よく忘れてしまうので……。」と書いてくださった方がいて、確かにその通りだな、と深く納得しました。そしてそういう意味で言えば、自分が興味を持てずに数行読んで戻してしまった日記の中にこそ、大切な気づきが隠されているのかもしれないとも思いました。そう思いつつも、やはり「のめりこんで読めない」「興味を持てない」日記もあると思います。
このWSとそれ以後の時間を通しても、「すべての日記が面白い」とまではやはり私は言い切れないです。しかし、
・日記を読んで、その日記の作者に興味を持つ(もっといえば「好きになる」)可能性はある
同時に、
・日記を読んだだけではあまり興味を惹かれなくても、日記を読んだうえで作者と話すことで一気に「好きになる」可能性もある
という二点を、私は感じることができました。
そしてもう一つ、
・日記を読んで心を動かされた相手に対しては「自分の日記を開示してもいい」
と思えて、これはとても不思議な気分でした。
2022年05月01日 ななめな学校ディレクター 細谷
P.S. 最後にもう一通、総まとめを書きます。