「時間」について(細谷→金川② : 2020,03/20)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの2通目の書簡です。

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金川様

お世話になっております。
頂いた一通目の書簡、何度も読みました。これだけでもう往復書簡を提案した意義があったと思うほど興奮しました。
同時に制作の背景や作家の思想が明らかになりすぎていて大丈夫だろうかと少し心配にもなりましたが、その塩梅の判断は金川さんにお任せします(笑)。
また書簡とともにお送りいただいたメッセージでの「このワークショップで自分としても新しい展開ができそうな予感がしています」との言葉、非常に嬉しいです。勿論、WS参加者に多くのものを届け、満足していただくことが第一目的ですが、同時に金川さんにも「得たものが沢山あった」とWS終了後に思って頂けるよう最大限サポートしますし、このWSで試したいことがあれば是非チャレンジして頂きたいです。(さらに言えば、私も「連続WS」かつ「金川さんとのWS」だからこそできることを模索したいと思っており、往復書簡はまさにその一つです。)

さて、先日私が1通目の書簡を書いてから今日までの間にWSのタイトル
「夏への扉 日記をつける、写真をとる」
とWSの大まかな内容が決まりましたね。
前回「文章」としていたものが、もう少し明確な「日記」というものになりました。
そして「日記」と決まってから今日までが2週間強で、これはおおよそWSの各回の間隔と一致しています。
WSの大まかな内容が決まって少ししてから「もしかしたらこれは私が1人目のWS参加者なのかもしれない」と思いついたのですが、毎日忙しくなかなか日記をつけるまでには至りませんでした。

ただ、折角なので私の2週間を簡単に振り返ってみますと、やはり仕事の面でもプライベートの面でも新型コロナウィルスの影響が色濃く出始めたことが一番のトピックです。金川さんもNY行きを中止する決断をなさったとのことですが、私も4月に予定していたNY行きが中止になり、国内の仕事も一つ大きな案件がとまりそうになっています。また、トイレ・換気扇・照明器具といった様々な機器が手に入らなくなってしまっています。(注1)

こういったパンデミックに対して、建築は何ができるのか(例えば震災に対しては避難所に紙管の構造体で即座にパーテションをつくるなどの建築的支援がなされていますが、パンデミックに対し瞬間的に密閉された空間をつくることが可能かなど)はこれから向き合っていかなければならない課題だと考えさせられました。また、今回のパンデミックによって社会構造は変わる(簡単なところで言えばリモートワークが増える等)のだろうか、経済状況の悪化による影響はどれほどまでになってしまうのだろうか、なども漠然と考えていました。
が、あとは目の前の仕事と全力で向き合う通常通りの日々でした。
小さな心の動き(トラブルがあって嫌になったり、目途がついてほっとしたり)はありましたが、それらはその瞬間に記述しておかないと清算されてしまう(理性によってコントロールされてしまう)もので、今正確に思い返すのは難しいものです。

同時に、写真を何枚撮っていたかも見返してみました。全て携帯で撮影したもので、仕事の記録用の写真を除くと12枚でした。そのうち10枚は長野に行った際に撮ったものなので、日常生活の中で撮ったものはわずか2枚でした。
1枚は東大の入試日に東大正門を撮ったもの(正確にはこれは2週間より前のものですね…)で、もう一枚は急に「絵が描きたい」と思って撮った終電の車内です。
この結果を振り返って、WSの各回の間隔である2週間で写真を撮ろうとすると、かなり意識的に撮らないといけないなと思う一方、たった2枚の写真でも十分にこの間の社会の様子(コロナの中、通常通り行われた東大入試)や自分の心情(忙しくてほぼ毎日終電帰りだった事実や、その中でどうしても自分のためのアウトプット(=絵を描く)がしたくなってその素材として電車内を撮った)を表しているなと思いました。

今、今日までの2週間について文章を書き、撮っていた写真を振り返ったこととも関連するのですが、金川さんから頂いた返信の中で最も興味をひかれたのは「文章の場合は、「まちがっている文章」「完成していない文章」というのが存在しますが、それに対して写真の場合を考えると、「まちがっている写真」「完成していない写真」というものは存在していないと思います。」という箇所です。
これを読んだときに私は、後半の「完成していない~」の部分を捉え、
「文章は時間を内包するが、写真は瞬間を切り取る」ということなのかなと考えました。
勿論、長時間露光のような手法はありますが、写真はシャッターを押す一瞬で全てが決まってしまうのに比べ、文章は何度も推敲し手直しできます。金川さんが書かれているように、私も文章を書くのにはものすごく時間がかかってしまうタイプで、何度も読み返し、修正しています。読めば読むほど言い回しの拙さやわかりにくさが気になってしまい、読むたびに修正したい思いに駆られます。言い回し程度ならまだよいのですが、内容も修正したくなる時があります。例えば過去に日記に激しい言葉で怒りを記述していて、後日読み返し、恥ずかしくなって穏やかな言葉に書き換えたことがあります。その時、その日記は「時間を内包した」ものになると思います。但し怖いのは、仮に内容を修正してしまうと、その文章の修正とともに自分の記憶も修正されてしまい、激しい感情はなかったことにされ、最初から冷静に怒りを表したように自分が思い込んでしまうことです。

一方、写真はその瞬間にしか存在せず、シャッターを押すタイミングを逃してしまったら、二度と同じ写真は撮れないと思います。しかし、だからこそ見返した時に、その写真を撮った時の心情が明確に思い浮かび、その感情に嘘がつけないと感じました。今まであまり考えたことが無かったのですが、今回の期間中に撮った3枚(せっかくなので長野で撮った写真ーコロナで閉鎖中の小学校越しの善光寺ーもお送りしますので、そちらも含め3枚)はほとんど無意識的(意図していたわけでなく、瞬間的に急遽思いたって撮った)だったのにも関わらず、見返すと撮った瞬間のことやその際の心情がクリアに思い浮かび、自分でも驚いています。
上記の「2週間の振り返り」に綴った「思い返すのが難しい小さな心の動き」をまさに正確に思い出させるものだったからです。

思い出したからといってその内容をここに記すのは憚られるものがあります。それは思い出されるものの中に多分に負の感情も含まれているからです。きっとWS参加者も「最終的に他人に見られる可能性のある日記」と言われると赤裸々に心情を表現するのは難しいような気がします。

けれど、私にとって「無意識的に撮った写真がこれほどまでにその瞬間の心情を思い起こさせるのか」ということは、今日この文章を書くことによって痛感させられた大切な気づきであり、そのことに気が付いたというメモが今日の日記です。メタ的ですが。
このまとめ方は少しずるいかもしれませんが、参加者は参加者それぞれのやり方で、それぞれの「日記」をつければよいのかなと思っています。

ちなみに、金川さんのおっしゃる文章と写真の違いについて、「完成していない文章」はあるが、「完成していない写真」はないという部分は私の認識でほぼあっているかと思うのですが、「まちがっている文章」というのはどのような文章を指していますか。もしかしたら私はこの「まちがっている~」というニュアンスを正確に掬えていないかもしれません。

長くなってしまいましたがもう少し続けます。
まず、見られることへの意識について。
金川さんが写真について「基本的にほとんど何もしなくていい、逆に言うとほとんど何もできないメディア」と仰っているのがとても興味深かったです。この写真との距離感というか、付き合い方が金川さんの写真家としてのスタンスなのだろうと感じました。そして、これは「ほとんど何もできない」ということを認識したうえで「何ができるかを考え、見出す」ということなのだろうと想像しました。
そしてイメージの話はもう少し深くお聞きしたいなと思いました。なので、(失礼な質問かもしれませんが)手掛りとしてあえて問わせてください。金川さんにとって「良い写真」とはどんな写真ですか。具体的に言い換えますと、展覧会に出す写真や写真集に掲載する写真を、撮りためたたくさんの写真の中から選ぶとき、何を基準にセレクトされますか。

次に、映画について。
お返事いただきありがとうございます。そして、お誘いいただいたのにご一緒できず申し訳ありませんでした。
私は普段あまり映画を見に行かないので、こうやってお誘い頂いたのは貴重な機会だったので残念です。

少しだけ、何故あまり映画を見に行かないかについて書きます。

私は映画館で映画を見ているとその間だけ「現世と切り離される」ような感覚があって、それが少し苦手です。家でDVDを見ている分には問題なくて、それは日中であればカーテンを閉めていても太陽が移り変わっていくさまが何となくわかりますし、深夜であっても車の通り過ぎていく音や風の音、雨の日ならその雰囲気や湿度などが感じ取れるからです。DVDならいざとなれば自分の意志で停止することもできます。

外界から切り離された箱という点では同じですが、ライブハウスや演劇は大丈夫で、それはステージ上の演者も生身なので、客席の状況や反応によって、演奏が中断されたり、引き伸ばされたりする余地があるので「現世」と同じ時間が流れていると感じられるからです。

けれど、映画は待ってくれないので、ものすごく分断される感覚があって、映画館から出たときに世界が一変していても何の文句も言えないなという得も言われぬ妙な感覚があるのです。

書きながらいろいろ考えていたのですが、物理的に外界と切り離されること以上に、決められた時間の流れに落とし込まれることが苦手なんだと思います。
とはいえ、耐えられないほどではないですし、そういった感覚も稀には良いものなので、年に数回は映画館にも足を運びますが。

一方、絵画や写真を美術館で見たり画集や写真集を眺めたりするあいだや、小説を読んでいるあいだにも、世間の時間の流れとは異なる自分だけの時間の流れが存在するような感覚になるときがあります。そちらはむしろ心地よく感じ、それは絵画や写真も小説も待っていてくれて、自分のリズムで鑑賞出来たり読み進めたりできるからだと思います。

なんだか抽象的な話になってしまいましたが、金川さんはインプットやアウトプットの際に時間の流れについて考えることはありますか。私のような体感的な時間の伸び縮みでもよいですし、もっと大きな歴史的時間の流れのような話でもよいです。

今回はあえて「書きながら考える」かつ「手直ししない」を自分に課してみたのですが、読みにくいですね…。 けれど、本質的な部分は伝わると思うのでこのままお送りします。

お返事楽しみにしています。

2020 03/20 ななめな学校ディレクター 細谷

注1:ディレクター細谷の本業は建築設計です

■ひとつ前の書簡はこちら

■この書簡に対する金川さんの返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭WEB

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