WS一回目開催
2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」の往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの5通目の書簡で、WS一回目のレポートです。
金川様
昨日、ついにWSの第一回目が開催されましたね!
1年間の延期もあったので「ついに」と書いてしまいましたが、ここからがスタートですね。金川さんも私も手探りの部分も多く、参加者の皆さんが今回の取り組みにどのような反応を示すのか不安な気持ちもあったのですが、大多数の方がこの往復書簡を読んで下さっており、参加者の皆さんと一緒に考えながら作っていくWSであることを理解して下さっていたことにほっとしました(率直に言って、参加者10人の内、3人くらい読んでいてくれたらラッキーと思っていたので、とても嬉しかったです)。
これから2週間ごとに授業が開催されるわけですが、授業後には毎回この往復書簡にて簡単に授業を振り返ろうと思っています(私の視点を通して、ということにはなってしまいますが)。
理由としては、このWSが「記録」を一つのテーマにしているということもありますし、今回のWSの募集人数が少なかったので、残念ながら抽選で漏れてしまった方や物理的な都合で応募はしなかったけれど今までこの往復書簡を読んで下さっていた方など、参加できないけれど興味を持っていらっしゃる方にも少しだけ授業のエッセンスを届けられたらいいなという思いからです。
さて、今回の授業は大きく
① 金川さんの自己紹介
② 今回のWSの「日記と写真」というテーマについて/参加者の自己紹介
③ 日記を書くフォーマットの説明/昔の日記を、書いた本人に朗読してもらった音声を聴く
の3パートに分かれていました。
まず金川さんは「father」にいきつく前の、大学生の頃の写真を紹介して下さいました。その際のテーマになっていたものは「現実に見えているものと写真に撮られたものとの差異、違和感」だったと説明されました。
“写真にすると、目の前に見えているものとは異なったものになってしまうという実感があったので、写真で何かを説明するのは難しいし、写真は何かを説明するのには向いていないと感じていた。だから、写っているものが何であるかが問題にならないような写真を撮っていたし、何であるのかわからないように撮っていた。「シュール」とか「ナンセンス」とか言われるようなものを追求していた。”
この説明を聞きながら、そういえば金川さんに「father」以前の写真を撮っていたときに考えていたことを伺ったことはなかったかもしれないと思いました。また、「写真に撮られたものと実際に目に見えるものとの違い」について話したこともあまり無かったなと。
そして、僕だったら目に見えるものと撮影した写真に乖離があったら「目に見えているものを、目に見えているままに写真に撮りたい」と試行錯誤するような気がするのに、そこに乖離があることを前提に「写っているものが何であるかが問題にならないような」作品を撮ろうとジャンプできるのがすごいなと感じました。
脱線しますが、僕は、写真は「撮られる対象が私の眼にはこう写っています」というものであってほしいなという気持ちがあります。デジタルカメラのモニターだけをみて、その中でトーンを決めるのでなく、モニターと実際に目に見える被写体を見比べてトーンを決めてほしいというか。
最近、自分がよく知っている空間をカメラマンの方が撮った写真を見た時に「とても格好いいけれど、格好良すぎじゃないだろうか」と違和感を覚えた経験がありました。その写真は(建築の竣工写真の様に)空間の質を伝えるための写真ではなく、写真はそれだけで成立しており、その空間を特定する必要もない写真でしたが、あまりに整いすぎていて、「この空間が撮影者にこうやって見えているわけではないだろうな、写真としての美しさを考えてこういうトーンにしたんだろうな」と思ってしまったのです。
これは、たまたま僕がその空間のことを知っていたせいかもしれませんし、単純にそのカメラマンと好みが合わなかっただけかもしれません。
うまく伝えられていないように思うのでもう少し説明しますが、これは実際に見えるとおりの写真を見たいという意味ではないのです。例えばシャガールの絵はそこにあるものをそのまま描いているわけではありませんが、昔シャガールの絵の前に立ったときに「ああ、ベラと暮らしていた時、シャガールには住む町がこうやってみえていたんだな」と思ったんです。絵も写真も「作者の眼」を提示するものであってほしい、というか、そういったものが好きなんだと思います。そして、これは前回打合せ時に金川さんとお話しした大森克己さんのピントの話ともつながる気がします。
スナップショットであっても作り込まれた写真であっても「ここを見ている」「こう見えている」という撮影者の「眼」に面白さを感じます。
(それが「作者の眼」なのか「作為的なトリートメント(最近だと“盛り”とかもその一部かな…)」なのかは微妙なところで、見る側の勝手な判断かもしれませんが、何となくわかる気がします)
かなり外れてしまいましたが、金川さんのお話を聞きながらそんなことも考えていました。
“学生時代にコンペに入選したことをなんとなくの言い訳にして、卒業後就職することもなく写真を撮り続けていたが、だんだん今まで撮っていた手法にも倦んできたというか撮れなくなっていき、何を撮ればいいのかわからないまま27歳で芸大の大学院に入った 。その年に親父が久しぶりに蒸発した“
との説明から「father」の話へと進んでいきました。
蒸発し、金銭的に困窮した状況でも淡々としており、写真を撮られることに全く嫌なそぶりを見せない一方、撮られる瞬間に着飾ったり恰好つけたりも一切しないお父さんを撮り続けたこと。そして、途中からはフィルムカメラを渡してお父さん自身に自撮りしてもらうようになったこと。また、必要に迫られて日記(文章による記録)をつけだしたことが語られました。
“写真だけを見ても、この人(金川さんのお父さん)が蒸発を繰り返していたり、経済的に困窮していたりということは直接的には説明できない。 けれど、その人となりというか、この人のありようはこれらの写真から感じ取れると思う。“と。
「father」を写真集で見た時には気が付かなかった(というか流してしまっていた)のですが、今回スライドで見せて頂いて、何枚か差し込まれている「誰もいない部屋」の写真が強く印象に残りました。その理由をまだはっきりとはつかめていないのですが、物は少ないのに掃除が行き届いているとは言えない部屋の状態にお父様の状況やありようが示唆され、「誰もいない」ということが「蒸発」の暗喩になっているように感じたからかもしれません。
そして高齢者施設での撮影などの話を挟み、最後に、最新作である「ハイムシナジー」について説明されました。
“現在の自身の共同生活を撮った「ハイムシナジー」は、先日「声の棲み家」というグループ展で発表した作品で、写真とテキストの両方を提示した。テキストでは自分の言いたいことや「何を伝えたいか」をおおよそ把握できているが、写真の方は、これを提示することで何をしたいのかわからない部分も多く、展示されている写真を見たとき、作者ではなく一人の鑑賞者のような客観的な視点になった。”
Fatherにおける「写真と日記」の関係や役割の違い、ハイムシナジーにおいての文章の役割は今後のWSの中でもう少し深く聞いてみたいなと思いました。
また、写真を撮り出した当初の「写真は何かを説明するのに向いていない」という感覚は、今どのように変化しているのかについても今後どこかのタイミングで伺いたいです。
休憩を挟んで②です。
ここから参加者全員が輪となるように座席配置を変えました。
まず、金川さんが少しだけ日記について話しました。
以前、日記を読むWSを行ったとき、そこには文章を書くことを仕事にしている人も、普段はほとんど文章を書かない人もいたが、どの日記もとても面白く、表現にヒエラルキーが無いように感じて、今回のWSにあたり「日記」というテーマが面白いのではないかと感じたことや、「自分について語ること」そして「それを開くこと」を肯定したいという気分になっていることなどを語ってくださいました。
また、前提として「いい日記」「よくない日記」というものはないと思っているため、WSにおいて「もっとこうしたほうがいい」と言うことは適切ではなく、金川さん自身も参加者の一人であり、相談役である、という立場を表明されました。
そこから、今回のWS参加者に一人ずつ順番に自己紹介をしてもらいました。
自己紹介として、今回のWSに参加しようと思った理由と写真・日記とのいままでのかかわり方について話していただきました。
金川さんの自己紹介が、淀みなくスムーズでありながらも形式ばっておらず、今回のWSの導入としてとてもいいなあと思って聞いていたのですが、その流れを引き継ぐように皆さん自然に自分のことを話して下さって、その内容がとても面白かったです。
「WSに参加した理由」を説明するだけで、自ずと今その人が考えていることや必要と感じているものが現れ、やはりそういうテーマのWSなんだなと実感しました。
詳細には触れないですが、普段出会わないような人と出会い多様な考えに触れたい、このWSに参加することで新しいことを持続的に行うきっかけにしたいといった発言もあり、とてもいい場になりそうな予感がしました。
また、「以前参加した写真のWS(そのWSでは写真をひたすらに大量に撮った)の先生に『写真はプライベートからは切り離されたものとして存在する』と言われたが、今回のWSは写真をプライベートなものとして取り扱っているので、そこが気になって参加した」と仰った方がいて、これは金川さんの視点とも共通しており、またどこかのタイミングで参加者みんなで考えたいテーマだなと思いました。
最後のパートである③では、みんなで日記をつける”フォーマット”について説明しました。
今回のWSではgoogleドキュメントに各自日記をつけてもらうことにしました。これは当日授業内では話しませんでしたが、写真と日記の関係がなるべく規定されない媒体を選びたい(例えばfacebookやInstagramでは文章の途中に写真を入れることが出来ず、noteは(利用しないこともできますが)トップにサイズが規定された画像挿入範囲があるなど、フォーマットのシステムによって、文章の長さ・写真の縦横比・写真と日記の関係などが決められて欲しくない)と、二人で色々考えた上での結論だったのですが、既に手書きで日記をつけてらっしゃる方も数人いらして、結局何を選んでも制限は出てしまうなと少し反省しました。 ただ、今回はこれで行きましょう。
授業の最後に、金川さんが最近録音している「昔の日記を、書いた本人に朗読してもらった音声」を聞きました。日記の書き手の肉体をより感じ、文章で日記を読むときの面白さとはまた別の面白さというか、感情の揺さぶられ方をしますね。
今回、参考例となるような日記の紹介はしませんでしたが、ここで様々なタイプの日記があることを実感できたことも良かったです。
さらっと書こうと思っていたのに、とても長くなってしまいました。
昨日今日で参加者の日記のリンクが集まってきており、初日である昨日(WS当日)の日記にはWSのことを書いてくださっている方が多いのですが、皆それぞれにこの授業に面白さを見出してくださっているようで嬉しいです。
ともかく、結構いろいろなことに不安を抱えながらの初回だったので、無事終わってほっとしているというのが今の本心です。笑
これから、WSの最終回である7月31日まで、参加者は毎日「写真と日記」で記録をつけることになります。大変だとは思いますが、その大変さすらも楽しんで貰えたら嬉しいなぁ。
そういえば先日、とてもとても久しぶりに「いいな」と思える写真が撮れました。その理由は全体の色のバランスなんだと思いますが、それ以外にもいろいろある気はしています。自分が撮った写真について「いい」と感じられたなら、何でそう感じたのかについて分析してみるというのは結構大事なことだなとおもいました。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
2021/06/06 ななめな学校ディレクター 細谷
■ひとつ前の書簡はこちら
■二回目のWSのレポートはこちら
金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)
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