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内省的な旅日記

七草と旅の記憶

日本半分縦断、青春18切符の旅
青森と音楽 1

風の音-青森市


青森空港に降りた私は、エントランスの外に出て、目移りするように辺りの景色を見回していた。
雪が15センチほど積もっていて、道路脇にうず高く積まれている。周りは針葉樹に囲まれている。アカマツ、スギ、ヒノキ…自分の知っている少し標高のある山のような植生だったが、空の青さは薄く清浄で、1000メートル、2000メートルの山上の強い光とは明らかに違っていた。(ふさふさとした深緑の葉を持つ見慣れない針葉樹はヒバの木だったようだ。青森の特産物だという。)
風が疾い。透明で薄墨色の雲が後から後から流れ来て、目まぐるしく形を変えては過ぎ去っていく。
異国、という言葉が私の脳裏に浮かんでいた。

同行者である友達と程なく落ち合うと、バスで青森市街を目指した。約30分の道すがら、懐かしい筐体のUFOキャッチャーが詰め込まれたレンタルビデオ屋や知らない名前の大型スーパーが車窓を流れていくのを見つめていた。
青森という響きには10年以上も憧れていた。そこはかつて貪るように作品を読み耽った小説家の故郷であり、叙情的で心に刺さる歌詞を叫ぶバンドマンの出身地であり、ゲームの実況をよく見るプレイヤーの居住地でもあった。
実際に訪れたこの土地の空の色も町並みも何もかもが予想とは違っていた。しかし不思議とよく知っているような気がしてならなかった。

最近無感動になっていた心の奥底が静かに震えているような気がした。

深い藍の色をたたえた海原の向こうから、地鳴りのような風の音が響いてくる。遥か彼方に白い灯台の見える岬で、寒さに目を細めながら、海岸沿いにのびる遊歩道の手すりへ身を乗り出して、私はひとり風の音を聞いていた。

下調べをほとんどせずに出た旅だった。目の前に広がるのが内海であり陸奥湾と呼ばれていることも、シマダイやホッキ貝や立派な脚をくねらせたミズダコの並ぶ賑やかな市場があることも、私は現地で初めて知った。
行きたい温泉があった。ただその一心で出発した旅だった。

海を後にし、友達と合流した。午後の空気の残る青森駅を出て、JR奥羽本線で南へ下る。空が淡い桃色に色づく頃、川部駅で乗り換えて、五能線を西へ辿った。日が暮れると辺りは真っ暗で、グーグルマップの青い点だけが自分達の位置を示していた。
深浦駅で一時下車した時、まるで駅だけが闇の中にぽつんと立っているようだった。付近に唯一あったコンビニへ向かう。空を見上げるとたくさんの星が瞬いている。暗闇に沈む道路の向こうからザンザンと音が響いていた。その時は何の音かがわからなかったが、後から調べたところ、日本海が間近にあったので、きっと波の音だったのだろう。
真っ暗な路線は人もまばらで、乗ってくる人達も物静かだった。規則的な列車の音だけが断続的に続き、不可思議な空間へと誘っていくようだった。

ウェスパ椿山駅に着くと、送迎をお願いしていた温泉宿のバンが迎えに来ていた。車から降りてきた初老の男性もやはり物静かだった。しかし優しく丁寧に、5分ほどでつきますので、と温かな物腰で告げ、慣れた手つきでハンドルを握った。10人乗りのバンは明かりのない山道をハイビームで切り裂いて進む。ほどなくして宿の名の書かれた立派な木の立て看板が姿を現した。
チェックインを済ませると、畳とベッドの落ち着いたモダン和室が私達を出迎えた。
背負っていたバックパックを下ろして布団にダイブすると、泥のように沈んでいく心地がした。


この日の昼間、日頃のストレスを友達と吐露し合っていたところ、急激な腹痛と貧血に襲われた私はトイレで倒れていたのだった。唐突な体調不良は何年ぶりかの失態だった。友達は気にしないでと言ってくれ、休憩できる場所を見つけてきてくれた。私の申し出で電車の時間まで別行動となった。申し訳なさと不甲斐なさから顔を腕で覆いながら、下腹部をマッサージしつつ貧血のおさまるのを待っていた。
休憩所の座敷に横たわる私を、前かけをした店員さんがのぞきにきて、心配そうに声をかけてくれた。もう人がいないのでゆっくり休んでくださいね、と言ってくれたひと言が心の底にまで染みた。私は起き上がって頭を下げた。こうしてはいられない、まだ行きたい場所がある、と自分自身に言いながら、長く息を吐いて鳩尾の辺りをさすり、両脚に力を込めていた。しばらくすると腹痛がおさまった。
寝ていた場所の座布団を整えてザックを背負った。広い建物の中をウロウロと探したが、店員さんはもういなかった。

海を見に行こう。まだ靄がかかったような頭でそう思った。
私はSNSを開くと、体調が戻った報告とお詫びと感謝、予定通りの時刻に駅で集合できるという旨のメッセージを友人に送った。
トイレの場所を教えてくれた魚屋のおばあさんにお礼が言いたかったが、すでに姿が見えなかった。私は人の行き交う生鮮市場に一礼して、足早に海を目指した。


閉じた瞼の裏に乱舞する昼間の光景と共に、語り合った日常の苦しさがチカチカと瞬いて、耳鳴りのような風の音が遠く聞こえた。私は胃薬を飲んで泥のように眠った。


翌朝、日が昇ってから、浴衣を持って外に出た。
海辺の露天風呂では上空にミャアミャアとうみねこが舞っていて、灰色の雲の流れる空に白い明るさを足していた。染み渡るような海水に似た泉質の湯が、昨日の体調不良も日頃の苦しい出来事も溶かして流していくようだった。風の音が波の音に混じってずっとしていた。普段聞いているビル風とも、太平洋の風の音とも違う、低く鳴るように体の芯を揺さぶる風の音だった。熱すぎず、しかし、外気に触れている部分の熱を奪う風が吹いても寒くない程度の熱さを保った湯は茶色く濁っていた。その色は泥とは違う複雑な鉱物の美しさを思わせる色で、私は深く息を吐いた。

うみねこは丸く黒い海岸の石の上に一匹ずつお行儀よく並んでいる。上空を舞う真っ白な鳥達は、おもむろに羽ばたいては風に乗り切れなかったようなおぼつかない滑空を見せる。友達が、魚をくわえている、と一羽のうみねこを見上げた。嘴の先にくたっとした銀色のものが見えた。その海鳥は白くふっくらしたおなかをのけぞらし、斜めに旋回してあっという間に飛び去っていった。

宿の朝食をたらふく食べて、秋田駅に向けて再び五能線に飛び乗った。
たくさんの美味しいものがあったが、特にりんごカレーが優しくて、甘くて懐かしくて美味しかった。

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