第九章 暗闇からの脱出
朝を迎えたとき、空模様がよくないことを、ナディンもりりもすぐにわかった。
風が吹き付けて、外に出ると、海が大きな波しぶきをあげていた。
防波堤も、歩いている人はおらず、船も一隻もでていなかった。
自分たちの小屋は、防波堤の道路を挟んだ山側に位置して、防波堤からも入り口は、少し高い場所に建ててあった。
いくら、波しぶきが防波堤のすぐそばまでやってきたとしても、小屋までくることは、無いと考えていた。
昼前に、小屋を貸してくれたタジンさんがやってきて、備品をそろえてくれた。
嵐に備えての備品は、懐中電灯や、縄や、バケツや、レインコートや、長靴など男物でごつごつしていたが、それらを置いていってくれた。
「今日の夜は、大荒れするだろうから、外に出ないほうがいいぞ」
と言って、出て行った。
外は、すでに夕暮れのような暗さだった。
風はひどくなる一方で、昼をすぎると、雨が降り出してきた。
雨が降る中にいると、自分たちは、小屋の中にいるしかなかったので、二人とも、洗濯を家の中にほしたり、ご飯の準備をしたりと、湿気の多いジメジメした日を過ごした。
夕方になるころには、少し風もやんだが、日暮れの頃には、雨はまた降り始めて、風も強くなっていった。
二人を心配する人が、近所の人が、何人か来た。みんな心配そうに、小屋を眺め回しては、大丈夫かしらと首をかしげた。
二人は、どれほど大きな嵐なのかも想像できなかったので、笑って応えていた。
夜になると、小屋の壁が、風でギシギシなり、ランプも隙間風のために揺れていた。
早めに、寝床に入ったが、二人とも寝むれなかった。
リリは、昼間言っていたように、本当にこの小屋は大丈夫だろうかと不安に思っていた。
ナディンもまた、小屋のつくりが、丈夫なそれとは違っていたので、嵐に耐えうるのかと心配だった。
もし、小屋に何かあるようなことがあっても、海はここまでやってこない。
自分たちが、何かなることはないだろうと思っていた。
風のゴウゴウなる音と、壁や戸口がガタガタなる音で、しばらく眠れなかったが、夜半すぎに、ナディンはうとうとしはじめていた。
風の音、波の音、小屋のなる音があいまっている中で、ギギっと聞きなれない音がしていることに気づいた。
自分たちの家のすぐ傍ではないけれど、何か、ギギギとなっている音がする。
その音は、だんだん地鳴りのようになりはじめ、床に揺れて振動が伝わってくるのを感じていた。
自分たちの家の上のほうだ。
裏手は、畑ができそうなスペースがあり、その先は、石垣を超えるとなだらかな山の斜面だった。
ナディンは、飛び起きて、山側にあるキッチンから見える窓を覗き込んで眼をこらした。
すると、山の細い木々が傾れかけているところがあった。
間違いなく、この小屋の斜面の位置にあった。
ナディンは、リリを起こして、説明すると、すぐに飛び起きて、二人で、窓の外をみた。
月の出ていない暗闇の中でも、何かが起こっているのがわかる。
すぐに、二人は着替えて雨具と長靴をはいた。
小屋のあるところまでは、まだそれほど近くはないけれど、自分たちのところまでは一瞬できてしまうかもしれない。
そのうち、斜面の上のほうでゆっくりと木々が倒れこんでいくのが、見えたかと思うと、さっきの数十倍の
ギギという音とともに、ゴゴゴゴというものすごい音が聞こえ、小屋にその振動がやってきた。
ナディンとリリは、小屋が揺れる中、身包みだけで、小屋の外に飛び出すと、あっと言う間に、山手の斜面から流れてきた岩や土砂と共に、小屋の壁が崩れて、崩壊し、防波堤へと流れていった。
二人が飛び出したところは、間一髪で、土砂の流れがせき止められたところだった。
自分たちがいた小屋があったところは、土砂で飲み込まれて、岩や木が横倒しになった、泥畑のようになっていた。
二人は、呆然として、立ち尽くしていた。
雨は、小雨になっていた。
何が起きたかわからずに、りりは、恐怖で震えていた。
ナディンは、静かに、たちつくしていた。
自分たちの荷物も、小屋ごと流されてしまった目の前の状況をみて、寒さもきにならないほど、心がしんとしていた。
りりは、何もかもが流されてしまったのをみて、恐ろしかったが涙は出なかった。
ただ、じっとその小屋のあった場所をみつめたまま、二人は何も言わなかったが、やがて、そこから離れ土砂崩れから反対の方の防波堤ぞいを歩いていった。
幸い、土砂崩れにあったのは、自分たちの小屋と、その隣の民家が使っていた納屋とその周辺の小屋だけだったようで、住んでいた人は、みな非難して無事のようだった。
二人を見つけて、保護してくれた男性は、その町の役場の人だったようで、どこからきたか、家族はどうかなどいろいろ聞かれながら、一杯のあついお茶が出された。
二人は、朦朧としながら、余り口がきけずにいた。
他に家族はいたのか?という問いだけには、NOと応えた。
昨日まであった生活が、いっぺんに何もなくなってしまった。
二人を包んでいたものは、満ち足りた充足感でしめていたところが、いっぺんに何もない状態になってしまったことで、不思議と身体中が空っぽになったような気がしていた。
持ち物も、お金も通帳も、身の回りのものいっさいがっさいが、流されてしまった。
昨日までは、ありあまるほどの自由と充足を感じていたのに、いま自分たちには、何も無い。何も無いかわりに、縛るものもなにもなかった。
「身分証明は?」
と聞かれて、二人とも首を横に振った。
近所だった人たちが、警察や役所の人たちに事情を話してくれているようで、彼らも、こちらをみて気の毒そうな顔をした。
自分たちだけが、土砂の被害にあって、持ち物もなにもかもなくなってしまったのだった。
二人は、夜の間中、役場が用意してくれた場所にいたが、明け方になって、風も雨もあがり、陽がさしこむと、外に出た。
自分たちが歩いてきたであろう場所の先には、土砂で崩れている箇所があるのがみえる。
痛々しい傷のように、胸がぐさっとした。
二人は、温かいお茶と、パンなど、世話をしてくれる人たちが、自分たちを気づかってくれるのを虚ろな目でみつめていた。
ナディンも、りりも、身体の中が空っぽになったようで、頭はぼんやりした。
呆然としているのをみて、周りの人たちも、気の毒そうに見つめていた。
ナディンも、りりも、これからどうするかを自分たちで決めなきゃならないとわかっていたが、何も考えられずにいた。
これからどうするか、自分たちの着ているものをみつめて、いまの財産がそれだけであるというのが、不思議でならなかったし、実感もわかなかった。
旅にきて、遠く身寄りのないところまでやってきて、自分たちを証明するものまでも流されてしまった。
お金も、通帳もなく、着替えを買ったり、食べるものを買うこともできない。
いま、身の回りにいる人が、自分たちへ好意で世話をしてくれている。
着替えの服をくれたり、食べ物や、この場所も、すべて、この人たちの好意だけで、自分たちは生かしてもらっている。
そう思ったけれど、涙はでなかった。
こんなことになったことがないリリは、不思議な気持ちがしていた。
自分を誰もしらないところで、無一文になった今となっては、
お金で解決できる術がなにもない。
リリは、普段家にいて、デイが稼いでくるお金を受け取ってばかりの立場だったので、
お金がなくなるということが、そこまで実感がわかないところもあった。
隣をみると、ナディンは、相当なショックな顔をしていた。
ナディンは、誰かに扶養してもらっているわけでもなく、一切の生活費は自分のほそぼそとしたデザインの仕事でまかなっていた。
だから、お金を得るとことの重みを、誰より、リリよりも感じていた。
リリは、それも気づいてか、
ナディンを労わるように背中へ手をかけたが、自分の手も小さく震えているのがわかった。
いつも、手入れをし綺麗にしていた手は、泥がついていて、薄汚れて、あちらこちらに、擦り傷ができていた。
この手で子供を抱きしめて、家のことをして、毎日一日も休まずに家族や自分の生活のために働いていた手が、いま、擦り切れて汚れ、小さく震えている。
それをみたときに、リリは、自分がいかに大きなものをなくしたのだろうと思った。
運命の人に出会うためといって、家族から遠く離れた町までやってきて、自分は何かを得たように浮かれていた。
けれど、こうして、いま何も頼るものがなくなってしまったときに、いかに自分が家族に支えられて、それが自分にとっては、大きく心をしめていたかということに気づいた。
「コリン、バーバラ」
か細くもれた吐息のような、彼女の声がした。
隣で、ナディンが耳にして、リリをみると、彼女は泣いていた。
このたびではじめてみる彼女の涙は、いままで見たことのあるどんな涙よりも、いまの心の淵をなぞるようにゆっくり流れていく魂に誠実な涙だった。
ナディンは、リリの心に寄り添った。
彼女は、しきりに泣くことも、激しく嗚咽をあげることもせずに、ただ、静かに泣いていた。
そして、自分の手を両手で抱きしめると、じっと胸の前で、温めるようにしていた。
ナディンは、彼女の思っていることがわからなかったけれど、涙の意味はわかるように思った。
リリは、なんとしてでも、家族のもとへ帰らなければと思った。
いま、自分たちがどんな状況かもわかる。
旅にでて、荷物を失い、ここの人たちの好意で活かしてもらっているけれど、それも、すべて自分たちの元の生活を手に入れるためにはならないのも知っていた。
わたしが、帰る場所は、あの家だ。
いまとなって、電報なりをうって、デイに事情を説明すれば彼は車をよこしてやってきてくれるかもしれなかった。
しかし、リリの中で、そこは大きな賭けだった。
自分は、半ば家族を捨てるつもりで、この旅へと乗り込んでいた。
本当に捨てるつもりならば、一切連絡をたって、この町にすむことをきめたかもしれない。
けれど、本当の自分は、家族とともにあることを、望んでいる。
毎日、平穏でなにも無いように思っていた生活が、本当の自分の核となることを知っていた。
ここにきて、それがようやく理解できたのだった。
わたしを支えていたものの元へかえろう。
ここからが、わたしの本当の旅だと思った。
帰るためには、まずお金を手に入れなければいけなかった。
町の人たちに借りるという手もあったが、それはしたくなかった。
リリの中で、自分の心の決意を誰の手も借りずに行いたかったのだった。
自分が大切だと思うもの、そして、この旅が教えてくれたものが、彼女を成長させていた。
人に甘え、そのあたたかい中で、ゆっくりしていた自分を一度、外においやる必要があったのだった。
それは、新たなる自分を捜し求める旅でもあった。
いままで、当たり前にあった環境がなくなってみたときに、自分の本当の価値が見えてくるものかもしれない。
何も無い、自分には、運命の人が必要だと思ったけれど、本当に必要だったのは、自分を変える力だったのだ。
リリは、いま大きく立ち上がろうとしていた。
海を見渡す景色の中で、風に吹かれながら、思考がさだまってゆくのを感じていた。
家に帰ろう。
そして、自分の足で帰ろうと思った。
ナディンは、りりの様子をみながら、何か思いついたようだと思った。
彼女が、遠くをみながら、ぎゅっと結んだ口には、言い知れぬ思いと決意があるのをみてとれた。
ナディンが、彼女の側にやってきた。
二人が海をみながら、同じ位置にたったときに、リリが、潮風の中、はっきりと口にした。
「スープをつくるわよ」
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