リリのスープ 第五章 女性のくちびる
ナディンは、ビールの酔いがいっきにさめていくのを感じた。
「なんてこと」
ナディンは、すぐに、デイの、あの人のよさそうな顔を思い出した。
わたしは、なんてことをしちゃったの。
この子をこんなところまで連れてきちゃって。
悪魔に加担してしまったようだわ。
そんな様子をみてか、リリがいった。
「ナディン、そんな顔しないでちょうだい。
わたしにもまだわからないんですもの。
このドキドキや、感情は、久しぶりすぎて、
これが、恋ってもんかなんて、
わからないんですもの」
ナディンは、
「だったら、そのままわからないほうがいいわ」
と天を仰ぎながら、胸の前で十字を切った。
リリは、その様子をみながらも、彼女自身も闘っているようだった。
それは、彼女の中での自問自答だった。
夕焼けが始まっていた。
風が、肌寒くなってきていた。
昼間温かい日差しも、春の気候では、まだ寒い。
ナディンは、今夜の宿のことを思い出した。
「もうすぐ夕方だわ。今夜の宿をとりにいきましょう」
そういうと、カクテルに酔ったのか、リリは、ぼんやりしていた。
はしゃぎすぎた後に、昼日中からお酒を飲んだので、よいがまわってしまったようだった。
ナディンは、リリをゆらしたが、どうにも、自分の足で歩けるか、微妙なところだった。
「ねえ、リリ立って。ホテルを見つけなきゃ、あたしたち車に泊まることになっちゃうわよ」
そういったが、リリは、眠そうにしていた。
「困ったわ」
リリを置いていくわけにもいかない。
けれど、自分の足であるけない彼女を担ぐこともできない。
こんなとき、いつもデイがそばにいて、フォローしてくれたけれど、今は異国の地に来てしまっている。
ナディンは、重い決断を迫られていた。
まだ陽のあるうちに、ホテルを探して、そこに彼女を運び込もう。
机に突っ伏すように、寝てしまっているリリをそのままにして、店内に戻った。
さっきの男性が見えたので、事情を話すと、すぐに了承してくれた。
「大丈夫ですよ。あなたが帰ってくるまで、彼女をそのままにしておきますよ」
と言ってウィンクした。
優しさが、みに染みたが、ここらで、ホテルなどあるのだろうか。
「どこに泊まっているの?」
と聞かれ、ナディンは、嘘がつけなく、まだ決まっていないといった。
男性はちょっと驚いた顔をしてから、
「オッケー。この先いったところに、知り合いの宿があるけど」
と言った。
ナディンは、せっかく言ってくれた申し出だったが、この男性の知り合いというだけで、その宿もこんな男性がうようよいるのではないかと思うと、苦々しくなった。
「嬉しいけれど、わたしたち旅は初めてだから、その、女性二人でも安心して泊まれるホテルみたいなところだと嬉しいのだけど」
そういうと、男性は、ちょっと笑ってから、オッケーといい
「通りをはさんだ、向かい側に、小さなホテルがあるよ。確かビジネスホテルだったと思うから」
と教えてくれた。
ナディンは、申し訳ないような気持ちがしたが、お礼を言って、ホテルへ向かった。
リゾートホテルたちならぶ、ビルとビルの間にあった三階建てくらいの小さなホテルだった。
チェックインを済ませると、すぐに店に向かった。
もう、ずいぶんと陽が傾いていた。
デッキでは、何も知らないリリが、机に突っ伏したままの姿で、寝入っていた。
肩には、男物のジャケットがかけてある。
それが、誰のかをたずねるまでもなかった。
ナディンは、リリの寝顔をみて、ホッとして、デッキの椅子に腰掛けた。
潮風が、汗とともに、頭の中に浮かんでくるいろんな考えを吹き消していってくれるようだった。
リリは、あどけない顔をして寝入っていた。
いつも、歳より若くみられるリリは、一緒にいると、ナディンの方が年上のようだったし、よく間違われた。
寝顔をみていると、子供を生んで、中年に足をかけているようには、見えない。
ナディンは、肌寒さと複雑な思いで、一回身震いした。
「ねえ、リリ」
揺り起こすと、眠そうに起き上がって、ハッとしたようになった。
ここがお店のデッキだと気づくと、恥ずかしそうにして
「あたし、どうしてたのかしら。記憶がないもの」
と言った。
「もう!あなた寝ちゃったのよ。カクテル一杯で」
そう言うと、
顔を赤らめながら、
「やだ、はずかしいわ。あら、これ誰のかしら。あたしったら、誰かから介抱してもらったのね。もう、こんなにお酒が弱くなるなんて」
と言って、頬に手を当てた。
ナディンは、ホテルをとったことを話すと、さらにリリは、申し訳なさそうに、ありがとうと言った。
ジャケットを持つと、ナディンは店の中に入っていった。
さきほどの男性がカウンターにたっているのが見えた。
ジャケットを持っていくと、それに気づいて、
「やあ!お目覚めですか」
と笑いかけてきた。リリは、ナディンの後ろで、恥ずかしそうに頬をあからめて、ちいさく頭をさげた。
ナディンは、それをみて、
「行こう!」
とリリの手をとって、足早に店を後にした。
リリは、まだふらつく足で、ナディンにしっかりついてきていた。
何か怒ってるのかしらというふうな、顔できょとんとみている。
その顔をみて、はあ、とため息がでた。
ホテルに着くと、部屋に入って、ナディンはすぐにシャワーをあびた。
髪の毛が潮でべとべとしていた。
ナディンは、今日あったことや、りりのことなど、この旅行に来てからのことを考えていた。
ホテルで二人きりになって、温かいシャワーをあびたからか、どっと疲れが出てきた。
さっき、店で自分があんな態度になってしまったことだって、もとはと言えば、りりに関係しているのだ。
もう、どうしてこんな思いしなきゃならないのよ!
声にならない声をだしながら、ナディンは苛立っていた。
一方では、りりを守らなきゃと思っている自分がいた。
この世間をしらない箱入り娘のような彼女を、旅行の間守れるのは、自分だけだと思っていた。
そして、デイに許可をもらって連れ出したのも、自分だ。
デイから預かっている大事な娘のような存在なのだ。
その彼女を、誰かわからぬような男の毒牙にかけるわけにはいかないのだ。
疲れからか、ナディンの想像は、突飛になりかけていた。
浴室から出た、ナディンのそんな顔をみたリリが、
「あなた、5歳くらい歳とったような顔をしているわよ」
と笑っていった。
それには、苦笑するしかなかった。
シャワーを終えて、気分がよく鼻歌をうたいながらやってきたリリをつかまえて、思い切ってナディンは聞いた。
「ねえ、あなた、本当にこの旅行で、運命の人を見つける気なの?」
そういうと、彼女は、じっとこちらをみて笑って
「あら、そんなこと心配していたの?そんなことわかりゃしないじゃない。運命だって、そんなにすぐに見つかるものではなくてよ。旅行の間に見つかるか、見つからないかは、神様でもなければ、わかりゃしないわ。
それに、わたしは、運命の人って、そうそういないと思うのよ。だから運命なんじゃないかしら」
と言った。
「じゃ、旅行の間に、誰かいい人を探すってことではないのね?」
ちょっと困ったような顔をしてから、りりは、
「ん~そういうことでもないのよ。どこに運命の人がいるかわからないから、旅行しにきたのよね」
そういった。
「じゃ、もし、仮に運命の人が現れたとして、あなた旅行が終わったらどうするの?お家に帰るんでしょ?」
りりは、あっけらかんと言った。
「そんなの、わからないわ。だって運命って、それほど強烈にインパクトがあるってもんでしょ?お家に帰りたくなくなることもあるかもしれないわね」
「じゃ、デイはどうするのよ。子供たちだってあなたを待ってるわよ」
りりは、一呼吸おいてから
「ねえ、ナディン。あたしたち女性は、そりゃ結婚して子供もうまれて、幸せな家庭があれば幸せでしょうよ。けれど、女ってそれだけかしら」
「そりゃ、そうじゃないと思っているわ。現に、あたしは、結婚もしていなければ、子供も生んでいないし、この先、産むかどうかわからないもの」
と、ナディンは、言った。
「そうよね。子供をうんで、ハズバンドがいたとしたって、女には、女の幸せが他に用意されていてもいいと思うのよ」
「それが、りりは、運命の人だっていうの?」
リリは、ちょっとだけ、困ったような顔をした。ナディンは、おや?とその時思った。
リリは、自分でも、運命の人は他にいるという気持ちは、正直で本当の気持ちだった。けれど、自分にとっての、デイや子供たちとの関係も終わりにしたくないというのも、本心だった。
自分が求めている、やすらぎや、ほっとするような、充実感は、デイも与えてくれていた。
けれど、本当の意味では、違うことのような気がしていた。
運命の人は、デイではない、という気持ちも硬く結ばれた靴紐のように、その靴を履いて家を飛び出してきてしまったのだ。
自分にとって、何が必要で、本当は、誰を探しているのかというところにくると、りりは、わからなくなってしまうのだった。
「ねえ、運命の人って、どんな姿をしているのだと思う?」
ナディンは、さらに、はあ?というように、呆れ顔で聞き返した。
「あなたね、運命の人っていうけれど、どんな人が運命の人だっていうの?あなたが満足するような男性って、この世にいるのかしら」
りりは、自分でいって、ナディンの言っていることもよくわかった。
「それは、神様でもなければわからないことでしょうよ。それに、あたしは、デイと子供たちを捨てて、その運命の人のもとへ行けるかといわれると、自分でもよくわからないのよ。家にいたときは、何が何でも、家を飛び出したくて、そして、デイのことだって、好きだけど、心の底から求めている安らぎや、一体感のような、アウンの呼吸のような人ではなかったし。だから、旅をしにきたのだけど。もし、そんな素敵な理想にぴったりな人が現れて、自分が運命の人だよ、と仮にその人がいったとして、いまのわたしは、何もかもを捨てて、その人の胸に飛び込める勇気ってものがあるのかしらと思うと、自分に自信がもてないのよ」
と言って、リリは、しゅんとしているようだった。
ナディンは、素直な彼女の言っていることがわかる気がした。
「リリ、あたしは、あなたのこと、好きよ。素直で、計算していなくて、思ったことを話してしまうところも全部。けれどね、あたしには、いまデイのことも同じくらいに大切に思う部分があるのよ。好きというところではなくてね。あなたのパートナーだから。この旅行に来たのだって、デイの協力があってこそだもの。そんなデイのことを捨てて、運命の人にいくあなたの姿をみたくないわ。できることなら、何も無く、家に帰りたい。そう願っているわ。あなたたち二人のために」
それを聞いていた、りりは、まっすぐ窓の外を眺めていた。潮騒が、窓の外で鳴っているようだった。
自分のこと、自分たち夫婦のことを、心配してくれる親友の話をリリは、黙って聞いていたが、やがて、
「あたしは、自分に正直でいたいの」
と言って、ベッドに入ってしまった。
ナディンは、そのままにしておこうと思い、部屋の電気を消した。
リリは、その晩、蒼い海の底で、バタバタともがいている夢をみた。
蒼く暗い、深海の底で、自分が苦しくもがいている。
このまま、息ができないと思ったとき、ぱっと目が覚めた。
まだ、かすかに暗い明け方だった。
隣のベッドには、ナディンがいた。
こんなに早く起きてしまうことは、めったになかったが、りりは、気持ちがもやもやして、外にでかけることにした。
寒くないようにと、カーディガンを羽織、下は、ガウンのまま、明け方の海へと出かけた。
外は、陽がまだのぼらない、薄暗い海だった。しかし、山の上の雲には、オレンジの光がさしていた。
もうすぐ太陽が昇ってくるのを表していた。
少し、ひんやりする朝の空気の中、砂浜を歩いてゆくと、靴の中に、砂が入ってきた。
リリは、そんなことも新鮮で、嬉しくて、いっそ裸足になってあるいてみた。
夜明け前の冷たい砂が、ひんやりと気持ちよかった。
風が、髪を遊ぶ。
裸足のまま、歩いてゆくと、海の波打ち際までやってきた。
まだ冷たいだろうから、入る気にはなれなかったが、
すこしはなれたところの、砂浜に腰をおろしてみることにした。
太陽の光で、だんだんと海の色が浮き上がってきた。
リリは、だまって、ぼんやりとその時間を楽しむことにした。
しばらくすると、風の中に、後ろから人の歩いてくる砂を踏む音がした。
振り返ってみると、なんと、昨日バーにいた店員の男性だった。
ジョギング中なのか、軽装で、帽子をかぶっていた。
向こうもビックリしてか、
「やあ。きみだったのか」
と笑った。りりは、恥ずかしくなって、
「こんにちは」
と言った。彼は、近くまでやってくると、寒くないかい?と聞いた。
「大丈夫、これがあるから」
とカーディガンをさしたが、本当は少し寒くなっていた。
男性は、にこっとして、
「ぼくは、ガイだ。気軽に、ガイって呼んでくれ」
「あたしは、リリーよ」
というと、ガイは、ちょっと笑って、知っていると言いたそうにし、
「昨日、きみの友達が、何かときみをエスコートしようとがんばっていたからね」
「え?ナディンが?そんなことないわよ」
「そうかい?エスコートじゃなく、フォローかな」
といって、笑った。リリーは、からかっているのを感じて、むっとした。
「あら、そうかしら」
と言うと、ガイは、また笑って、
「あはは、だって本当のことだろう。だって、きみ酔っ払って寝ちゃったんだし。心配してもらえるなんて、いい友達さ」
リリは、ちっとも、笑えなかった。初めてくるお店で、ましてや人の前であんな風に酔いつぶれてしまった自分を恥ずかしくて、できれば、それを知っている人には会いたくないと思っていたのだが、ガイは、そんなことを少しも気にかけない様子で、笑って話すのが、気に入らなかった。
「あなた、嫌な人ね。人の醜態をそんなにずけずけと。思い出すのも嫌だわ」
とりりが、言うと、ガイがおどろいて
「そうだったのかい?ぼくは、そんなつもりでいったんじゃないんだよ。ただ、あんなふうに自由に振舞って、酔ってデッキで寝ちゃう女性は、あまり見かけないから、なんだか新鮮で、おかしかったんだよ」
「それが、悪口だっていうのよ。嫌味だわ。なんて人かしら」
こんな朝早くに散歩にくるんじゃなかったと、りりは思った。
立ち上がって、その場をさろうとしているリリをみて、ガイは、ちょっと困ったふうに、
「ごめん。そこまできみが傷つくなんて思わなかったんだよ。ぼくにとっては、とても新鮮だったけれど、きみにとっては、ナイーブなことだったんだね」
そういって、謝った。リリは、それでも、やっぱり腹がおさまらなかったので、その場を去ろうとすると、
「誤解しないでおくれね。リリは、とても魅力的だと言いたかったんだよ」
リリは、何よそれ、と思って、振り返ると、ガイの目は本当にそう思っているようだった。
りりは、急に恥ずかしくなった。
「そんなこと言ってもだめよ。あたしは、もう怒ったんだから」
そういうと、風にガウンの裾を翻しながら、ホテルへと歩いていった。
ガイが、後ろで、どんな顔をしているだろうと思ったが、自分でも、なんだかおかしな気持ちになっていたので、
そうそうに、ホテルに帰ることにした。
太陽はもうあがり、辺りは十分に朝を迎えていた。
ホテルにつくと、ロビーは、パンケーキとコーヒーのいい香りがした。
お腹がすいていたので、ナディンを起こして、朝食をとろうと思った。
りりには、自分でもわからない気持ちが存在していた。
けれど、海の香りや、風の匂いと一緒に、ガイの顔を思い出すのも、ましてやどんな会話をしたかも、ぼんやりとしか思い出せないのだった。
不思議なこともあるものね、そう思おうとした。
リリは、結婚してから、いままでに、デイ以外の人とデートや食事をしたり、ましてや、二人きりで話すことなどほとんどなかった。
だから、自分の中で、男性はデイだけであり、それ以外は、家族や女友達、デイの友人だけだった。
そんな自分だから、まったく初めての経験だった。
男性と二人で話したことが。
男性と話すってどんなことだっけ。
女友達と話すようなこととも違うわ。
結婚する前まで、男性とどんな会話をしていたかも、思い出せなかった。
リリは、笑った。
「あたしったら、思ったよりずいぶんとおばあちゃんになってしまったのね」
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