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新卒の頃先輩社員から言われたこと
「それ、他の人には言っちゃいけないよ」
彼は、営業車のハンドルを握り前を向いたまま声を潜めた。
何でですか?と私は聞く。当然だ。
「一般人には理解されないからね」
彼——新卒で入社した会社の先輩は少し笑みを浮かべていた。
狼狽する私に先輩が言葉を続ける。
「僕は仲間だから」
どういうことですか?
私の声は多少高くなる。
「僕も、『漫研』」
まるで私も先輩もレジスタンスの一員だったかのようなトーンで告げられた言葉に面食らった。
そもそもの先輩からの質問はこうだ。
「はりまなさんは、何か部活やってた?」
部活というか、大学時代は演劇部にいて、高校時代は漫研でした。
という私の答えに対して発せられたのが、冒頭の台詞だ。
漫研——漫画研究会というものは、それほどまでに忌み嫌われていたのか。
私はしばらく言葉がでなかった。
あれから30年以上経つ。
「漫研」にいたとはいうものの、私はほとんど漫画を描かなかった。
田舎の、人数の少ない小学校で育った私は「絵の上手な人」だった。
人付き合いの苦手で友人の少ない私の周りに人が集まるのは、自由帳に落書きをしているときだけだった。
中学校ではあまり他の人と話していないのでよくわからない。
イラストを描き、コバルト文庫やハヤカワ文庫を読み、一世風靡セピアに夢中だったから、それでもなんとかやり過ごせた。
高校に入学したばかりのある日の授業中、斜め前にいたクラスメイトが
おもむろに机の下から大きなスケッチブックを取り出し、イラストを描き始めた。
しかもカラーで。
クラスメイトの席は、一番前だったのに。
私は、彼女の度胸と、授業中すら描かずにいられない情熱と、その画力に面食らった。
そのどれも、私は持ちあわせていなかった。
そして、私は本気で絵を描くのをやめた。
完全にやめたと書けるなら、まだなにか一貫したものがある気がする。
だが、それもできなくて、たまにイラストのようなものを描いてはいた。
私の中では絵を描くことより、文章を書くことに力を入れることにしたのだ。
彼女やその仲間たちに近づきたくて、「漫研」に入った。
「漫研」では漫画を描かなかったけれど、一挙に友人が増えた。
電車に乗って街まで映画を見に行ったり、ボーリングに行ったりした。
どれも初めての経験だった。
高校時代は仲間に囲まれていたから、「漫研」以外の人からの「おたく」に対する視線には気付かなかった。
とある連続殺人事件の犯人が「おたく」だったという報道があったのが1989年。
漫画やゲーム、アニメ誌で埋まった部屋が連日テレビに映っていた。
確かに、世間からの目は厳しかったと思う。
だが、面と向かって批判されたことはなかったから、その温度には気付かなかった。
先輩は、ちょっと芝居がかってカミングアウトしただけだったかもしれない。
それでもその言葉と様子を30年経っても思い出しては考え込んでしまう。
30年経って、多くの人が「オタク」を自称するようになった。
私は自分を「おたく」と呼べるほどの熱量も知識も鑑賞眼も批評眼もないのを自覚していた。
「おたく」なんてしっかりした存在ではありません。半端者でございます。
そういう気持ちでいたから、現在の「オタク」が気軽に「オタク」と言える時代になったことに驚いている。
知識も鑑賞眼もいらない。批評も考察も不要。
ただ何かをものすごく好きなら、それはもうその何かに対するオタクだ。
そういう時代が来て、よかった。
私は50歳を過ぎてようやく「オタク」と自称できるようになった。
外出時、推しのぬいぐるみをバッグに潜ませたり、「現地」に行ったりするのを楽しんでいる。
これらの行為はいまや「推し活」と呼ばれ、無視できないほどの経済効果もある。
「オタク」を自称し、「オタク」として行動することで、随分活動的になった。
イラストもまた描き始めた。
先輩、元気にしてますか?