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20240210 坂本城跡発掘調査現地説明会

「麒麟がくる」最終回から3周年の日に突然発表された「坂本城石垣発見」のニュース!!
3日後に現地説明会が開催される…「えっ!3日後かよ!」と急な告知でしたが。まさに「時は今。」ということで早起きして新幹線で日帰り弾丸で行ってきました。

こちらはその説明会での職員さんのお話の文字起こしと写真になります。
後半の質問コーナー?は半分くらい落としてますが💦。
画像と合わせて現地の興奮とほのぼのした雰囲気を感じ取って頂ければ幸いです。☺️

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現地遠景。この撮影場所から参加者の立ってる先までが堀跡らしい。
30m発掘された石垣
堀の中に転がるおおきな石。地震で崩れた石垣の外側か?


説明会の様子。

【現地説明】あの、お陰様で今日はたくさんの方に来ていただきまして。皆さん朝早くからお並びいただきまして、本当大変ご迷惑をおかけしたかと思いますけど、本当にありがとうございます。
私もニュースにたくさん出させてもらったんですけど、言葉遣いの悪い公務員として上司にちょっと怒られまして。(笑)
今日は少し真面目にって言ったらあれなんですけど、ちょっとまともな言葉でと思っています。
できるだけ皆さんにわかりやすいシンプルな言葉で出来るだけ伝えていきたいなと思っております。ただ時々専門用語が出るかもしれませんが、ご了解のほどをいただければ大変ありがたいです。

それでは早速説明の方に移らせていただきますが。
今回いま、皆様の目の前に広がっています現場というものが今回見つかりました坂本城跡で、我々が三の丸でないかなと考えている部分になります。

皆様のお手元の資料「図1」では、この部分をドローンで撮影した写真を載っけさせてもらっています。今回の調査日と、説明会って描いてある文字の下くらいに白い建物が写っているかと思いますが…琵琶湖沿いの白い建物があると思います。

「図1」


この白い建物がいわゆる本丸推定地の跡、というふうになっていますので、坂本城のいわゆる三の丸の端っこ…この現場から琵琶湖のほうが、ある程度一体が写っている写真になるかなと思ってます。
ちょっと地元の測量会社さんからご協力をいただきまして、写真をいただきました。

今回、発掘調査をさせていただきましたこの坂本城というのは、皆様ご存じの方も多いかと思いますが、明智光秀が織田信長に命じられて作ったお城と言われております。記録とかが殆ど残っていない幻の城だといわれております。

何故幻かというのも、記録が残っていない以外にも、我々大津市が発掘調査をたくさん、何十年としてきていますが、確実に「これが坂本城だ」といえるような痕跡が見つかったのは今回が二回目になります。
前回は昭和54年、四十何年前の本丸推定部分といわれている湖岸沿いで発掘調査したときに、上級家臣団のお屋敷みたいなのが見つかってます。そのあと以来の今回は成果ということになりまして。
今回はその皆様の前に広がっております石垣と、その手前がガクッと深くなっていますがそれが外堀、と考えています。

早速ですが、今回の説明に移りたいと思います。
皆様、今日はお城好きな方が多いんですかね。大阪城とか江戸城とか。そういったところでみる石垣とは、ちょっと違う積み方をしているんじゃないかな、というのが見てわかると思います。
いわゆるこの石垣は自然のままの形。切り取ってきたんじゃなくて、転がってきたりとか、自然のままのかたちをうまく使った、いわゆる野面積みという積み方をしてるのではないかと考えています。
自然のままの石なので、きれいに切り取っていないので、どうしても隙間が出来てしまう。その隙間に細かい石を詰めていって、間詰(まづめ)という行為なんですけど。

そういうことをやって、平面・・・我々はよく「面(つら)」という言い方をしますが、ここを真っすぐ、皆様に向いている部分ていうのがきれいに真っすぐ見えるように石を詰めたり工夫をしている、というような積み方です。
いわゆる我々この辺の地域でいうところの「穴太(あのう)衆積み」というような言い方になりますが、実際にここを積んだ人間が、穴太衆が積んだかどうだかは正直わからない部分がありますし、この積み方イコール穴太衆積み、というわけではないとは考えていますが、ただ、場所的に穴太という土地はここから徒歩でも行けるくらいの距離です。
で、今日お帰りの際に京阪電車に乗られる方もいらっしゃるかもしれませんが、松ノ馬場駅といわれるあの周辺は、穴太頭といわれる穴太衆の工人さんのお頭さんが秀吉から土地をもらったとか言われている土地になってたりするんで、近所に穴太衆がいたのは間違いないと考えています。

ちなみに石垣の石材は花崗岩。このへんの比叡山でとれるような石になっている。なので地元にあった石をそのまま加工もせずにほぼほぼ運んで持ってきて積んでいった、というのが今回見つかった石垣になろうかと思います。

その石垣にはですね、あそこには真四角な一部、石垣の中に使われている石があったりします。こちらの北側のほうには、堀の中に入っていたんですけども。
こちらにも転用石材という形で、四角い石とか、あとは傘と言われるちょっと広がった段になっているものが出てますが、いわゆるもともと石造物で、石塔とか墓石に使われていたやつが実際にもまだ積まれていたり、堀の中から見つかったりしています。おそらく元々近所にあった石材みたいなのも石垣に使っていただろう、ということが考えられます。

転用石。

石垣の高さなんですけれども、今残っている高さはおおむね1mくらいが残っています。
本来どれ位の高さがあったのかというのは、なかなか復元が難しい部分ではあるんですが、石垣の裏に裏込めといまして、こういう細かい石を充填していくことをします。なんでかっていうと積んでいくだけだとすぐ崩れてしまうので、排水とか巻かれて崩れないように栗石(ぐりいし)という形で細かい石を詰めていってますが、この範囲がとても狭い。
そのことを考えると今回の石垣はこの狭さのままずっと上にこんな高かったということは正直ちょっと考えにくいかな、と思っています。

栗石。

皆さんのお城の石垣って想定するような、ぐうっと高い高石垣はおそらくここにはなかったんじゃなかろうかと考えています。
それですと、お城としての機能としては弱いんじゃないかという風に思われるかもしれませんが、ここは堀に伴う石垣です。なので、石垣のこっち…西側にはいま堀が広がっています。
多くの皆さんが堀の中に立っている状態です。今回の調査で見つかった堀は、調査の中では8m程度ではありますが、実は皆さんにお配りした資料の中の「図3」て書いてますが、今皆さんに見ていただいてる「1区」と我々が呼んでいる調査区、設定した掘った形になりますが。通ってきていただいたテントの前にも細長く発掘調査をしてきていました。

「図2~4」

あそこが「2区」といわれる部分ですが、そこの「2区」でこの石垣の痕跡、堀の痕跡というのが見つかっていません。本来堀である場合は、こっちの石垣があったら、反対側の石垣が見えてきていいかな、と考えますが。反対側の石垣が「2区」で出てきていない。ということはこの部分と「2区」との間に反対側の石垣があるだろうと考えています。そして今回の敷地の境目になっているんですけど、皆様の後ろ側にちょっと一段二段、ブロックが積んであるかと思います。あそこが丁度土地の境になるんですけど、そこには今でも細かい排水路が構図上でも残っていて入っています。
おそらくそういう痕跡が堀の痕跡になるんじゃないかなという風に考えますと、この堀の幅は12m程になると考えています。なので石垣がそんなに高くない、1m50とかMAXであったくらいの石垣であったとしても、12m分の幅広い堀だと、十分敵からの侵入を防ぐには耐えうるのではないかと考えています。

中に入っていた土を見ると、全部泥だったんです。泥だったということは水性帯質になることかと思いますので、滞水をしていた、水堀だった可能性がすごい高いという風に考えておりまして、幅が12m。
さらに水が張っていたということを考えると敵はやっぱり攻めにくい、そいういった機能を持っていた遺構だと考えるのが自然だという風に我々はいま認識しております。

で、今回その堀から出てきた遺物なんかの…お茶碗とかの年代とかを確認していくと、16世紀後半くらいには埋まったというふうに考えていますので、坂本城の時期と矛盾しないだろうと、いうふうなことで坂本城の可能性が高いと考えています。

ちなみにこの石垣と堀は長さは30m分みつかっていますが、実はもうちょっと続くと考えていまして。
「図3」の部分で石垣の推定で点々…とまだ北のほうに伸びるんじゃないかとしています。その右側に石積み遺構というのがこの北側にあるんですが、石積み遺構にも実はきれいに石垣が組んであります。
で、その石積み遺構の石垣と今ここに見えている堀の石垣の推定ラインをクロスするような形で結ぶと、きれいに90度で交わるような形でこの石積み遺構と石垣の関係があります。

石垣と90度、直角に交わる遺構。

今我々では調査が出来ていない、皆様が立っているその下くらいに実は角の部分があるんじゃないかという風に考えておりまして、もしかしたらこの石垣がカクッと曲がって、そこにある石積み遺構につながるんじゃなかろうかと。
で、その石積み遺構がかくっと入り込む部分は何だろうな?と考えるときには舟入とか、いわゆる着岸的な施設になる可能性があるんじゃなかろうかと考えております。それを補うかどうかというか、ちょっとまだ微妙なところではあるんですけど。この堀の中からは、手漕ぎ船のオールのような形をしたもの…これは羽子板です、といわれたりしてたんですけど。オールにもみえるようなものが出てきてますし、坂本城で数少ない文献の中ではお堀の中を舟で漕いで案内をしたとか、舟を漕いでお城に入ったとかいう記述があったりしますので、そういった形でその舟がこのへんにまわっていた可能性はあるんじゃないかなというふうに考えております。
それ以外にもですね、今回は礎石建物ですとか井戸なんていう生活の痕跡が見えてきました。今回の生活の痕跡というものは、実は今回の石垣とすべて同じ方向で規則正しく作られていることから、全部同じ時期のものの可能性が高いだろうと考えています。

画面奥に井戸跡
船入?石積みの遺構。
船入?の隣、礎石遺構。

で、この辺一帯から出土する遺物というのもすべて16世紀後半ですし。今回は数は多くはありませんが坂本城に葺いていただろうと考えられます赤い瓦と黒い瓦出土しもています。
戦国時代、このへんの時代で瓦を葺いている建物と言えばまず、お城の中枢的な建物かお寺とかになってくるんですけど。やはり瓦が出土するということは大きな成果のひとつとして数えられていまして。石垣があること、礎石建物があって瓦が出る、ということで今回はお城で、ほぼほぼ全壊のお城で間違いないと踏んでいます。
じゃあそこがお城だとして坂本城の三の丸と何でいえるのかと考えますと実は、皆さんの通ってきた西側、背中側の住宅街の発掘調査もしております。そのときには坂本城の痕跡はそんなに見えてきませんでした。その時に出てきたものは、坂本城より30年とか40年前の集落、職人のお屋敷の跡…数珠玉を作ってた職人の屋敷の跡とかが見つかってまして。
坂本城は元々もっと小さいんだ、と我々が考えていたところ今回ここでいわゆる外郭ラインと呼ばれる外のラインが出てきたということになります。

そこはまた出遺物が違うということもそうですし、先程から向きが建物と同じだから時期が同じ可能性が高いという話をしましたが、数年前に調査した西側の住宅地の調査ではこれとはまた別の向きの方位…今これは、ほぼほぼ正方位といって綺麗に南北東西を向いているんですけど、そこから2,30度東にずれたような建物が見つかっています。
基本的には建物とかは規則正しく配置されているはずですので、そういうことを考えても向こうは坂本城より新しい時代。で、ここは坂本城の時代にきれいに作り直された区画だという可能性が高いのではないかと思っています。

それでここが坂本城の三の丸だと、外郭ラインだと確定した場合、坂本城のいわゆる縄張りといわれる範囲がどういった形になるか?と申しますと。
資料の中の最後のほうにもちょろっとだけ書かせてもらってますが、今まで我々大津市が復元していたものよりは、この坂本城という復元している南側の部分は100mくらい小さくなるのではなかろうかと考えています。

「資料の最後の方。」

概ね今、皆さんの目の前にある石垣から今の湖岸線までが300mくらいになるというふうに考えております。
で、今後はですね、この三の丸の可能性が高いこの周辺の石垣がどれだけ伸びるか?ですとか、三の丸の形が本当はどうだったか。あとは今回はお城の西の際がある程度確定したのかな、と思っておりますが、じゃあ南の際はどうだったのか、北の際はどうだったんだろうとか今後我々の方でまた調べければいけない課題かと思っております。

 ・・・はぁ。ちょっと…朝からずっとしゃべり続けてまして。あと2回分は自分の体力も残しておきたいところなんですが。(笑)
まあ、以上で一通り調査の概略の話をさせていただきました。
ここからは自由に写真を撮っていただいたり、遺物を見ていただいたり、書籍を購入されたい方は書籍のほうに廻っていただいたり。私にいろいろ質問とかがおありな方は質問していただいたり、自由な時間にしたいと思います。
いったん私の方の説明はこれで終わらしたいと思いますので、ありがとうございました。
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【ここから質問応答(部分)】
Q:堀の中に大きな石が転がっているが、あれは石垣が崩れたものなのか?

個人的な見解を述べさせてもらいますと、私大津市は2年目なんですけど、入る前は熊本市で同じように発掘調査をしておりました。
で、熊本地震のときも職員だったんですけど。熊本城の石垣の崩れた状態を私、ずっと見てきてます。そのときの状況からみてみるとですね、実は熊本城の石垣なんかももっと石垣が高くてこう、ガラッと崩れているんですが。先ほど申した裏込めっていう石がもっと手前のほうにあって、奥の方にもともと積んであった石垣がポーンと行くんです。そういった崩れ方を石垣はすることがあります。

それを今回もその目線で見てみると細かい石が手前のほうにあって、ああいう大きい石が奥の方に行ってる、というのがありまして。超個人的な見解でいうと私は地震で崩れていってもいいのかな、という風には思っています。
記録には天正の大地震ですね。長浜城が崩れたとか、岐阜の方の大垣城ですかね、崩れたとかっていってる地震の中で、その天正地震のときに秀吉は坂本城にいたといわれています。
で、ルイス・フロイスは秀吉のことが大っ嫌いなので(笑)「大阪城に逃げ帰った」みたいな書かれ方してやったんかなぁと思いますけど。もしかして坂本城もその被害にあっていたんじゃないかなぁというのが超個人的な話…あのこれ、公式見解じゃないですので。(笑)

Q:それだったら破城じゃないのか?
私はその可能性としては、破城が何を根拠にしたら破城かと言われているか?正直私はまだ勉強不足で分かっていなくって。お城のことは熊本城の崩れたことしか私、知らなくって。これから破城のことを勉強していきたいと思っているんですけど。私としてはお城の地震で崩れたんじゃないかと思っております。

Q:石垣の裏の溝は同時期に掘られたものなのか?

石垣の裏の溝。


この溝に関しても基本的には同時期ではありますが、普通に考えれば石垣の裏側に溝があるというのは石垣の強度を弱めることになりますので不自然です。
出土している遺物をみてみますと、ほぼほぼ同時期なんですけども、若干こっち(裏の溝)のほうが新しい遺物が、比率が多いくらいの感じですかね。そういった意味で考えますと最初に作ったのはこっち(手前の大きな堀)で、あとから急遽作ったみたいなイメージです。
で、これはちょっと僕の意見じゃないですけど、とある研究者の方がいうには、もともとあった坂本城のお堀と石垣がこっちだとすると。本能寺の変のあとに坂本城に敵が攻めてくることが想定されますよね。光秀が信長を討って、せめて来られる。挙証なので。急遽、対秀吉用に掘ったんじゃないかと言っている人もいますが僕はよくわかりませんでしたね。(笑)

V字になっているので、けっこういわゆる弥生時代とかの環濠集落みたいな堀の形をしているんですよ。これはこれですごい意味があるなと思っているんですが、同時平造していると明らかに石垣の強度が落ちるんで。なかなか同時平造している時間帯は短いだろうということは考えてます。
ただ、時期的にはそんな差がないので。遺物だけを見てると。ちょっとこれからの検討で全国的にもこういった例が他にないか調べないといけないと思っています。見たことないです、正直言いますと。

Q:舟入と思われる部分について。(※質問聞き取れず)
舟入がおそらく所々、ぽこぽこっといたるところにあってもいいのかな、と思っています。

Q:石垣は比叡山の花崗岩とのことだが、花崗岩ってこんなだっけ?
そうですね、割と比叡山で見るのはこんな形のものが多いですね。ほか、花崗岩の中でも例えば生成された時期が違う花崗岩というのがたくさんあります。何千年まえとか、何億年前とか。同じ花崗岩の中でも中に入ってる鉱物によっては見た目が変わることがあるので、基本的には比叡山でとれる花崗岩で間違いないと思っています。
ちょっとまだ、全部の石を専門家に見てもらっているわけではないんですけど、おおむね花崗岩だと聞いています。

Q:石垣の基礎って、石垣だけで作られているんでしょうか?

石垣が沈まないための胴木。

胴木があるかってお話ですよね。今回の石垣には実は、ここの堀…だーっと30m出ている石垣にはありませんが、実は向こうの舟入じゃないか?といってる部分には胴木があります。なので全部に胴木をしてるわけじゃなくって。もしかしたらあの舟入の部分はちょっと時期差があるんじゃないかと思ってまして。あとで見ていただいたらわかると思うんですが、縦方向の…こっちの東西方向にカクッと曲がるんじゃないかっていう石垣に、途中からぶつけているような形でまた石垣がぶつかっています。そのぶつかっている方の石垣の下だけ胴木が来ているという状況なので。もしかしたら時期差みたいなのをあらわしているかもしれません。

Q:堀底の高さの違いがあることについて。
高さがあってもいいのかな、と思うのは、地形がないと水が流れていったりしないので、そういう意味では堀底みたいなところで高さが違うのはオッケーだと思っています。
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その他:
■いま堀の底に流れている水は(湖水でなく)山からの水だと思う。
(湖面から現場にかけて高さがあるので、湖の水とは考えにくい)
■今回発掘した場所は、宅地用造成での「道路」になる部分。
■堀底に所々刺さっている木は、昔この辺りの湿地のような水っけの多い土地を改良するために杭を打ち、土を入れた。そのときの杭ではないかと思われる。

土壌改良の杭のあと?

■船入場の横の小さな石の列は何か?

小さな石の列。

船入場の近くだとすると、荷揚げ等を行った小屋とか建っていた可能性があるので、それに関連したものではないか。
そういう建物と外の境目に竹垣を挿して作った跡なのかも。

■今後の保存については、民間、私有地ということで難しい面もあるが、何かしら残していきたいと思っている。

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ここから現地で出土した遺物の画像になります。

現地での出土遺物コーナー。


中央の黒いのが「漆器の外側」朱色の模様が残ってました。その下の朱いのは漆器の内側。


同じケース内。細い棒はお箸だそうです。
オールのような…櫂?


赤瓦と黒瓦。赤い方は天守の屋根にも使われていたかも、とのこと。


「すけごろう」の文字が読めます。
左端の釉薬がかかっているのは美濃焼き?下側の碧いツルッとしたのは外国からのもの。磁器?

【おまけ】
その頃の本丸跡石垣。1ヶ月前より水位が上がってました。

【終わり】

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