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美弱あつめ005 「顔の周りの小さな虫」

び ・ じゃく【美弱】
1 その人やものがもつ美しい弱さ。
2 弱さを受け入れ、慈しむことで、より自分らしく生きている状態。

子どもの頃から、顔の周りを小さな虫が飛ぶのが恐ろしかった。「自分は臭い」というコンプレックスをずっと抱えていたから、虫が飛ぶと「お前は本当に臭いんだぞ」と証拠を突きつけられている気がした。遠い昔、クラスメイトに「あいつ臭いから虫がたかってるぞ」とニヤニヤ笑われたこともある。虫が来ると、お願いだから早くどこかに行ってくださいと必死に祈っていた。

ところが、最近は顔の周りを虫が飛ぶと「あぁぁぁ、ありがとうございます」と心から感謝するようになった。なんなら虫に対して親愛の情まで生まれている。なぜかというと、小さな虫が私の命を助けてくれたから。「は?」と言われそうだけれど、あれは間違いなく助けてくれた。

先月、大阪の交野市にある「星田妙見宮」という神社にお参りした。平安時代に弘法大師が秘法をおこなって北斗七星が降ってきたという伝説が残るお社で、小さな山に鎮座する。長い階段を上り頂上の本殿をお参りした後、山中に点在する摂社にも行ってみたくなり、来た道を戻らずに山道を歩くことにした。

その日は平日だったからか、たまに風が吹いて木々がざわめいたり、鳥がさえずったりするだけで人の気配が全くない。ぼこぼこと地上に飛び出ている木の幹につまずかないよう、ロングスカートをたくし上げながら進む。肩にかけたトートバッグがずり落ちそうになったので、肩と腕に一層力を込めた。急に思いつき、何も調べずにふらりと訪れたものだから、山道を歩くには頼りない服装だ。

しばらく進むと、山の斜面に沿って何本も立っていた「のぼり旗」が途切れた。斜面を見ると、山肌があらわになり、階段らしきものがある。特に案内の看板はなかったけれど、階段を上ってみたら別の道に出る気配がする。もしかして秘密のお社もあるかもしれない……。

今思い返すと「よく上る気になったな」と呆れるのだけれど、私はトートバッグを肩にかけ直し、ゴツゴツジャリジャリとした山肌に手をついて階段らしきものを上り始めた。たった数段なのだけれど、傾斜が急で段差が大きい。ロッククライミングするような格好になり、ようやく「これ階段じゃないわ。ただの斜面だわ」と気づいたものの、途中でバックもできない。とにかく上まで行くしかなかった。

両手両足でなんとか上りきった場所は、森を丸くくり抜いたような木のトンネルに通じていた。『となりのトトロ』でメイちゃんが中トトロと小トトロを追いかけた道に似ている。せっかく苦労して上ったのだし、進んでみよう。私だってあわよくばトトロに出会えるかもしれない。そう期待して歩き始めた。

「うおっっ」

野太い声が出てしまった。目の前で二匹の虫が高速で飛び回り始めたのだ。ごま粒くらいの小ささで、縦横無尽にぴゅんぴゅん飛ぶ。私は手を振って追い払おうとしながら歩き続けるけれど、虫たちはしつこく目の前を飛ぶ。「もー!なんでまとわりつくのさー!」とイラついた次の瞬間、「あっ」と呟いた。ちょっと待って。これ、虫たちが「この先は行くなー!」と必死に教えてくれているのでは?  このまま進むと、怪我をするか、最悪命を落とすかもしれない。寒気とともに、そんな予感がしたのだ。実際、目の前の道はどんどん幅が狭くなり、両サイドが急斜面になっている。ここでひとりで滑り落ちたら、誰にも見つけてもらえなさそうだ。

「わー!すぐ戻りまーす!」と言いながら慌てて踵を返す。すると、あれほど顔の周りをしつこく飛び回っていた虫たちがもういなくなっていた。やっぱり危なかったんだ、私。ひえっ。

階段と勘違いしていた急斜面を下るのは、上るときよりもさらに怖かった。下手をすると滑りそうだったのだ。お気に入りのロングスカートが汚れるのも覚悟して、しゃがみながら一歩一歩踏みしめて下りた。手のひらに小石がめり込んでじんじんしたけれど、それくらいで済んでラッキーだったのだと思う。

この出来事があって以来、ことあるごとに小さな虫が私に大切なメッセージを伝えてくれるようになった。いや、私が気づくことができなかっただけで、昔から伝えてくれていたのかもしれないけれど。「お前臭い」なんて意地悪は言ってなかったのかもしれない。

例えば、家でひとりでエッセイを書いていた晩のこと。書くのにエネルギーが必要なテーマだったこともあり、途中から集中力が細切れになり、布団の上でおやつを食べたり、SNSをチェックし始めた。InstagramからXへと徘徊先を移し、タイムラインをだらだらとスクロールする。なんとなく目についた漫画の投稿をタップしたその瞬間。耳元で「ブゥゥン」とハエが飛ぶ音がしたのだ。

「わああっ」

耳の奥まで突き抜けるような、あの不快な羽音が急にしたものだから、思わず叫びながら頭を振ってしまった。え、家にハエなんていたの?  私はずっと家にいたのに、どうして今だけ耳元に来るのさ……と思いかけてすぐに「あっ、SNSばかり見てないで、そろそろ自分の文章を書きなさいということか」と気づいた。すると、不思議なことに集中力も戻り、一気にエッセイを書き上げられたのだ。その晩、ハエの飛ぶ音を聞いたのは一回きりだった。

こんなこともあった。ある朝、日課の散歩をしている最中に考えごとをしていたら、頭の中にどばどばと不安が流れ始めた。え、私本当にフリーランスで生きていけるのかな?  え、私お金だいじょ…

「ふがあっっっ!!」

右の鼻の穴に小さな虫が飛び込んだ感覚がして、住宅街でひとりで奇声をあげてしまった。もちろん頭も勢いよく振った。もし周りに人がいたら、こいつ急にどうしたんだと怯えたに違いない。虫は鼻の穴に入ったままなのだろうか。鼻息をスンスン噴射したけれど、よくわからない。

でも、鼻の穴襲撃事件のおかげで、つい先ほどまで自分を襲っていた未来への不安は魔法のように消え、一瞬で「今ここ」に戻れた。起こっていないことを想像して怖がっていても仕方ない。今幸せに生きているのだし、やりたいことをまっすぐにやり続けていたら必ずうまくいくのだった。

「そんなネガティブになりなさんな!大丈夫だから!」と、小さな虫が自分の身を投げ出してまで伝えてくれたのかと思うと、ありがたくて、いじらしい。伝え方がちょっと強引だけど、これくらいしないと私には効き目がないと思ったのかもしれない。家に帰って鼻をかんでみたら、それらしき姿は見えなかった。たぶん、鼻の穴に飛び込んですぐに出ていったのだろうな。

昨日の朝、家を掃除していたら、部屋の壁に蚊が止まっているのを見つけた。昔の私なら、刺されたくないからすぐに仕留めようとしたけれど、そんな気にはとうていなれなかった。「おはようございます」と話しかけ、そっとしておいた。

掃除の途中にもう一度壁を見ると、やっぱりそこに蚊がいる。そのとき「あっ、私がエッセイを書くのを楽しみにしてくれてるんだね!!」とはたと気づいた。数日前に小さな虫との出来事をエッセイにしようと思いついたものの、なかなか気分が乗らず書き出せなかった。でも、そろそろ書きたいなと思っていたところだったのだ。

「うわぁぁ、ありがとうございます!書きます!楽しみにしててください!」

壁の蚊に話しかけたら、蚊の細い前足が、ほんの少しだけ動いた。錯覚かもしれないけれど、私にはたしかにそう見えた。

私は「そうか〜、虫さんたちも待ってくれてるんだな〜」と嬉しくなり、そのまま掃除を続けた。そうかそうか。書くっきゃないよねぇ。

掃除を終えて再び壁を見に行ったら、もう蚊はいなくなっていた。狭い家の中を探してみたけれど、見つからない。私にメッセージを伝えたから、どこかに旅立ったのかな。

小さな虫のエッセイ、ちゃんと書ききったから、喜んでもらえるといいな。

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