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小説 『言の葉のスープ』
世界一美味しいスープだったのよ。あれ以上美味しいスープには、ついぞ出会えなかったわねぇ。でも、どんな具が入っていて、どんな味がしたのかちっとも覚えてないの。笑っちゃうわよねぇ。
あの人は決してハンサムではなかったわね。でもね、目が三日月のように細くて、それがまるでニコニコ笑っているみたいで素敵なの。寝顔まで笑ってるのよ! 奈良の大仏にそっくりだったから、間違えて手を合わせる人がいたんじゃないかしら、ふふふ。私も毎朝心の中で拝んでいたもの。めったに褒めない大叔母があの人に初めて会ったとき、第一声はなんだったと思う? 「あなた本当にいい顔してるわねぇ!」よ。あれは誇らしかったわね。
よく人柄は顔にあらわれるって言うでしょう? あの人と結婚して、それは真理だと思ったのよね。だって、とっても優しい人だったのよ。もう大昔の話だけど、見知らぬママが少し目を離した隙に、赤ちゃんがベンチから落ちそうになってね。私が「あ!」と思うより先に、あの人は駆け寄ってたわ。優しさが体に染み付いているんじゃなくて、優しさそのものなんだって思ったの。バファリンの半分は優しさでできているってCMがあったけど、あの人は半分どころじゃなかったわね。九割くらいよ。
でも、私はあの人からもらった優しさの一割も返せなかった気がするの。情けなくて、申し訳なかったわ。
私たち、お互い二十八歳のときに結婚したんだけどね。私それまで実家に甘えっきりで、家事なんてろくにしたことなかったのよ。恥ずかしいわ。結婚したてのころは、フルタイムで働きながら慣れない料理や掃除をするのが、想像以上にしんどくてねぇ。あの人は「家事なんて適当でいいから」っていつも言ってくれてたんだけど、私昔から頑固で完璧主義でしょう。うまく手を抜けなくて、というか抜きたくなくて、どんどん自分を追い込んじゃったのよね。毎朝ぞうきんがけして、夕飯は一汁三菜で毎日違う献立にするって決めてたんだから、狂気の沙汰よねぇ。あの人は私よりも仕事が大変で帰りも遅かったから、頼ることもできなかったわ。まあ、私一人でこなしたかったのもあったのよね。
そうそう、私、家事が自分の思い通りにできないと、あの人に八つ当たりしてしまってね。むすっとした顔で接したり、わざと大きな音を立てたり。ひどいでしょう。そのたびに、あの人は悲しそうな顔で「なんか怒ってる?」と聞くの。私はいつも怒った顔で「怒ってないよ」って返して、あの人を困らせていたわ。あの人は微笑むような細い目を伏せて、ますます悲しそうな顔になってね。私は怒りで相手をコントロールしようとする自分にも腹が立ったものよ。あの頃は地獄だったわねぇ。
無理は続かないものね。真冬のある月曜日、私プツンと糸が切れてしまったみたい。会社に行かなきゃいけないのに、どうしても起き上がれないのよ。もう仕事も家事も何もしたくなくなっちゃって。ゼロか百か、若い頃の私にはどちらかしかなかったのね。あの人が会社に行く前に寝室のドアを開けてね、すごいひそひそ声で「なーちゃん、だいじょうぶ?」って聞いてくれたの。私、羽毛布団を被ったまま「体調悪いから会社休むわ」ってひと言だけ返して。あの人は「お大事にね。今日も帰りが遅くなっちゃいそうでごめんね」って言って、そっとドアを閉めていったわ。玄関の鍵がカチャリと閉まって、あの人の足音が遠のくにつれ、涙が出てきてね。「結婚なんてしなきゃ良かったんだ」って雨戸が閉まった真っ暗な部屋でメソメソ泣いたわ。
泣き疲れていつの間にか眠りに落ちていて、気づいたら夜の七時よ。雨戸を閉めたままでも、夜の訪れは分かるものなのねぇ。闇が濃くなるのよ。湿った布団の中で丸まっていたら、鍵を静かに開ける音が聞こえてね。遅くなるって言ってたはずのあの人が帰ってきたのよ。寝室のドアがほんの少し開いて、白色の光がさっと差し込んでね。まぶしいの。逆光で顔はよく見えなかったけれど、あの人がやっぱりひそひそ声で「なーちゃん、起きてる? だいじょうぶ?」って聞くのよ。「うどんつくったら食べる? あと、ポカリ買ってきたよ」って。私、泣き腫らしてお岩さんみたいな顔を見られたくなかったから、「おなか空いてないからだいじょうぶ」って強がって言ったの。「じゃあポカリだけでも」ってペタペタと枕元にやってきて、そっと置いていってくれて。あの人がリビングに戻ったのを見計ってポカリをごくごく飲んだわ。
翌朝もやっぱり起きられなくて、気付いたらあの人はもう仕事に出ていたわね。頭がズキズキと痛くて、丸一日何も食べていないからお腹もペコペコよ。でも家には、すぐに口にできるようなものが何もないの。我が家の冷蔵庫の中身を把握してるんだから間違いないわ。何もつくりたくない、でも何か口にしなきゃって絶望的な気持ちでリビングに行ったのよ。
するとね、ガスコンロに赤い鍋が置いてあったの。大きくて重いから今ではすっかり使わなくなってしまった鍋よ。結婚祝いに会社の人たちがくれたル・クルーゼ。二日前に出した覚えはないのにおかしいなって近づくと、銀色の調理台に白くて小さな紙切れがあるのに気づいてね。
ノートの端を丁寧に切り取った紙に、緑色のボールペンでこう書いてあったのよ。
「スープつくりました.
良かったら、どうぞ
なーちゃんへ」
「スープ⁉︎」って、びっくりしちゃってね。でも何より、手紙よ!いつも「俺、字下手だから書くの嫌なんだ」って言って、書類や年賀状は全て私任せだったあの人が書いてくれたのよ。信じられないわ。右肩上がりに斜めの字で、やっぱりお世辞にもキレイとは言えないの。でも、ギュッとボールペンを握って、一文字一文字集中して書いた姿が目に浮かぶような、そんな力強い字よ。どうして「なーちゃんへ」が最後なのかしら。もしかしてメッセージを書き終わった後に「誰宛てか分からないかな?」って付け足したのかもしれないわね。二人きりで暮らしているんだから、分かるに決まってるのにね、ふふ。想像すると胸がいっぱいになるわ。
私ったら、この小さな手紙を持ちながら、またわんわん泣いちゃってね。仕事で疲れてるだろうに、昨晩こっそり作ってくれたんだわ。料理なんてほとんどしないのに。私はいつも「私が家事を全部してるんだからね!」って押し付けがましい気持ちでいたのに、あの人は「良かったら、どうぞ」よ。優しさを受け取るかどうかを私に委ねてくれているんだわ。私の気持ちと体調を本当に気遣ってくれている、それが心底伝わる言葉を贈られたのよ。
私、この人の見返りを求めない優しさをぞんざいに扱ってはいけないって、泣きながら思ったわね。それと同時に、私も心からあの人に優しくしなければならないって決心したの。それって、私一人だけのこだわりを捨てることなのよ。家事なんて完璧にこなせなくてもいいのよ。もっとあの人に頼って良かったのよ。私が肩の力を抜いて笑わなければ、二人とも不幸になってしまうのよね。
ひとしきり泣いてしゃくり上げながら、赤い鍋の蓋を開けてみたわ。鍋のふちいっぱいまでなみなみと、具沢山のスープが入っていたの。十人前どころじゃないなって、思わず吹き出してしまったのよね。優しさのスケールがいつも大きいのよ、あの人は。
スープ、もちろん温めて食べたわ。世界一美味しいスープだったのよ。あれ以上美味しいスープには、ついぞ出会えなかったわねぇ。でも、どんな具が入っていて、どんな味がしたのかちっとも覚えてないの。笑っちゃうわよねぇ。
大切なスープの味、どうして忘れちゃったのかしらね。あれ以来、何度もスープを作ってくれたのよ。塩とコンソメだけで味付けたシンプルなやつが多かったわね。厚切りのベーコンの美味しさと、人参や玉ねぎの甘みが出ているスープ。あれと同じだったような気もするし、違ったような気もするわ。
でも、味なんて忘れてもいいの。私にはあの人からの手紙があるから。言葉に美味しさが宿ってるのよ。あの人にはついに打ち明けなかったけれど、私ずっとあの手紙をお財布にしまっているのよ。まだ緑色の字は鮮やかなまま。こうやって取り出しては、あのスープの美味しさを思い出しているの。
あの人からもらった抱えきれないほどの優しさを、結局あの人に返せなかったわ。私が手渡した優しさの中で一番大きかったのは、あの人より先にいかないことだったかもしれないわね。
またおしゃべりしすぎちゃった。年取るといやあね。そろそろお昼ね、おそうめんでも茹でようかしら。
古びたアパートの一室に、初夏の陽射しが差し込む。窓の外、ソメイヨシノの葉が、風に揺れてサワサワと鳴る。
数年前に別のペンネームで書いた作品です。