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美弱あつめ009 「人に頼るのが怖い」
び ・ じゃく【美弱】
1 その人やものがもつ美しい弱さ。
2 弱さを受け入れ、慈しむことで、より自分らしく生きている状態。
「あぁ、私が熱で苦しんでるのに、随分嬉しそうだなぁ」
まだコロナが流行っていなかった五年半前、風邪かインフルエンザで高熱が出て、数日間うなされた。夫の転職で神奈川から兵庫に突然移住することになり、慌ただしく引越しを終えた直後だった。張り詰めていた糸が切れて、心身の疲れがどっと押し寄せたのだと思う。
「七恵、苺買ってきたから枕元に置いておくよ。蜂蜜とレモンも買ったから、あとでホットレモネード作るね。今飲みたければ遠慮なく言って。食欲ありそうなら、おうどんも作るから」
夫は寝室のふすまをそっと開け、布団の中で声にならない声でうめく私に優しく話しかけてくれた。私は朦朧としながらも「すごいなぁ。私が今求めているものを全部わかってくれてる」と感動する。
「うどん……食べたいです……」
激しく痛む喉をなるべく刺激しないように、風船がしぼむような声で返事をすると、夫は「わかった!すぐ作るから待ってて!」とボリュームを抑えつつも張り切った声で言う。嬉しそうな様子すら感じられるのは、なぜ……でも、労わってくれるのがただただ有り難かった。
このとき夫が作ってくれたうどんは、死ぬ直前に「美味しかったなぁ」と思い出す食べ物ランキングの一位かもしれない。やわやわに煮込んだうどんと、出汁のきいた優しい味のおつゆに、ふわふわのかき玉入り。「残してもいいからね」という夫の言葉に頷きつつ、ゆっくりとすする。なんだか食べているうちに食欲が増していき、美味しい美味しいと呟きながら完食してしまった。心なしか、体も楽になっている。
「いやぁ、七恵の役に立てるのが嬉しいなぁ。さあさあ、お布団戻りな」
ええ、そんなに言うほど嬉しいもの?目を細めて笑う夫のことが不思議で仕方なかった。このときだけではなく、夫は私が体調不良になるたびに、張り切ってうどんやおかゆを作ってくれる。
なぜ私が体調不良だと、夫が水を得た魚のようにイキイキするのだろう。最近ようやく気づいた。体が言うことを聞かず何もできない状況のときしか、私が素直に頼らないからだ。
「もっと頼っていいんだよ」
「七恵は全然頼らないもんなぁ」
結婚したときから夫は口癖のように言っていた。特に平日の夜遅く、私が疲れた顔で食器を洗ったり洗濯物を畳んだりしていると、夫は「俺やろうか?」という言葉とともに「もっと頼っていいんだよ」と言うことが多かった。
私は「うん、ありがとう。でも大丈夫」と返し、そのまま家事を続ける。本当に大丈夫だと思っていたし、夫だって仕事で疲れているんだから、自分がやるべきだと思っていた。夫は「も〜」と言いながら、少し寂しそうな表情でその場を立ち去る。うんうん、これでいいのだ。夫に負担をかけてはいけないのだ。
家事以外のことも頼れなかった。帰り道に「荷物持とうか?」と言ってくれても「ううん、大丈夫」。「アイス食べよっかなぁ」という私の呟きに「冷凍庫から取ってこようか?」と反応してくれても「ううん、大丈夫」。
生活費は夫の負担を多くしてもらっているけれど、それ以外の自分でできることは全部自分でする。それが自立した大人の女性として大切なのだと、私は思っていた。でも先日、どうしても夫に頼らなければならなくなった。お金が足りなくなったのだ。
まとまった額を「援助してください」と言わなければならない。でも怖くて怖くて仕方なかった。「これまで散々好き勝手に旅しておいて、どういうこと?」と怒られたり、見捨てられたりするのではないかと怖くて仕方なかった。でも、頼るしかなかった。今思えば「人に素直に頼れるようになるために、頼らざるを得ない流れを私自身がつくった」ような気もする。
「お金をください」
帰宅早々に私に言われ、夫は面食らったようだった。当たり前だ。私はといえば、手足が震え、心臓が体を突き破りそうなほど激しく打っている。「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と言いながら、もうこのまま消えてしまいたいと思った。
「いいよ。振込みがいい?手渡しがいい?七恵の都合のいい方法で渡すよ」
ほんの一瞬の沈黙の後、夫はとても穏やかな声でそう言ってくれた。こんなに慈悲深い夫の声は初めて聞いた。私は体の力が一気に抜け、「本当にありがとう」とひたすら言った。
***
「七恵さん。女性が男性から愛やお金を受け取るには、実はものすごく大きな器が必要なんです。自分自身を100%愛せていないと、ちゃんと受け取れません。渡すよりも受け取るほうがずっと難しいんです」
夫に「お金をください」と頼む前に、ある友だちに「夫に頼るのが怖い」と相談していた。未来の宇宙から来たのかと思うような、とても聡明で時代の遥か先まで見通せる女性だ。そのとき、彼女はこう言ってくれた。
「女性が自分を100%愛せていないと『愛をくれくれ』となって、男性からエネルギーを奪ってしまいます。男性は疲れ果ててしまう。でも、女性が自分を100%愛せているとき、その女性に男性が愛を送り、女性が素直に喜ぶと、男性はとてつもないエネルギーを生み出せるんです。もんのっすごーいエネルギーの循環が起こるんです!女性は自分自身をとことん愛し、男性は女性を愛して喜ばせることが本来は自然なんです」
「だから、旦那さんを信じてどんどん頼ってくださいね」と言いながら、彼女は可愛い声で笑った。
「私なんて『ペットボトルの蓋を開けて』と頼むこともなかなかできなかったですもん!『自分でできるのに』ってプライドが邪魔して」
私の不安を察してくれたのか、彼女はさらに続ける。
「『自分には愛を受け取る資格なんてない』『やりたいことをやって愛されるわけない』と思うかもしれないけど、ぜーんぶ幻です!七恵さんはそのままで素晴らしくて、愛される存在です。もし自分を愛するのが難しいと感じたら、七恵さんの心の中の彼氏にめいっぱい甘やかしてもらってると妄想して、自分の好きなことをしてみてくださいね」
私、本当に頼っていいの?だって、子どもの頃から「女だからって甘えるな」と散々怒られてきたよ。でもそれは、私自身が「自分を愛し、人に頼ること」を許可できていなかったから、相手が鏡のように私に厳しくしていたのかもしれない。
「お金をください」だなんて、いきなりホームラン級のお願いをしておいて、今も夫に頼るのは怖い。でも、アイス取ってくださいとか、洗濯物畳んでくださいとか、少しずつ少しずつ頼る回数を増やしている。夫は嫌な顔ひとつせず、むしろ「はいはい」と笑いながら、私に愛を惜しみなく渡してくれる。友だちが何度も何度も伝えてくれた「七恵さんはそのままで愛おしい存在だから」という言葉もお守りにして、私は人に頼ることを学んでいきたい。
夫に限らず、生まれてからこれまでに私を愛そうとしてくれた全ての男性に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せっかく差し出してくれた愛を受け取る勇気がなくて「いいえ、私にはそんな資格ありません」と全て突っぱねてきてしまったから。行き場を失った愛がぽっかりと浮かんで寂しそうにしていたのが、今も目に浮かぶ。もうとっくに遅いし、愛の受取通知が届くかもわからないけれど、本当にありがとうと伝えたい。夫や彼らに、ずっと幸せな奇跡が起こり続けますように。