
楽園で見つけた愛のかたち
福岡に「楽園」というカフェがある。
我が家からはまあまあ遠いのだけれど、楽園という名にふさわしく本当に素晴らしいお店なので、ちょくちょく行っている。
楽園のドアを開けると、コーヒーや紅茶を淹れる大きなカウンターが目に飛び込んでくる。そのカウンターを囲むようにして、壁沿いにベンチとテーブルが置かれている。お客さんは席につくと、自然と店主さんの所作を眺めることになる。そして、誰からともなく会話が始まる。
その様子がとっても自然で、店主さんもお客さんも誰も肩肘張っていない。心から会話を楽しんでいて、でもお互いに「美味しさ」への妥協も一切ないから、心地よい緊張感もちゃんと存在する。やさしい潮風を感じながら、波打ち際を歩くようなイメージ。
私は普段お店の人と積極的に話せない。でも、楽園では店主さんが良い意味でとても気ままに話しかけてくれるので、自分でも驚くほど自然に笑みがこぼれて、楽しくおしゃべりしてしまう。手元ばかり見て俯きがちな顔を上げ、お店に流れる穏やかな空気をすうっと吸い込みたくなる。
そんな風に心が開かれる場所では、素敵な出会いが生まれる。あの日、初めてお会いしたKさんご夫妻に「愛のかたち」を見せていただけたのも、楽園だからこそ起きた奇跡なんだろうなと思う。
私が席についてしばらくしてから、Kさんご夫妻は楽園に入ってきた。お二人が扉を開けた瞬間、お日様のような明るいエネルギーが一気に流れ込んだ気がした。背の高い旦那さんと小柄な奥さんが、にこやかに店主さんに挨拶する。その様子がとても素敵で、幸せをお裾分けしてもらった気分になる。
最初、私とKさんご夫妻はそれぞれ店主さんとおしゃべりをするだけで、直接話さなかった。でも、私の斜め向かいに座った奥さんが、紅茶を飲む私に「紅茶も美味しそうですねぇ」と微笑みかけてくださった。
「紅茶も気になるんですが、私たちはついコーヒーを頼んでしまうんです。店主さんが淹れてくださるコーヒーは本当に美味しくて!やさしい味がするんですよ〜! 店主さんのやさしいお人柄があらわれてるんですよね」
旦那さんも「本当にそうなんですよ」と、うんうん頷く。店主さんはKさんご夫妻のコーヒーをドリップしながら照れ臭そうに笑う。奥さんは目を細めながら私に教えてくれた。
「私たち、店主さんが楽園をオープンされる前に働いていたカフェでもコーヒーをいただいていたんです。そのときから店主さんのコーヒーが大好きで! 同じコーヒー豆を挽いて、同じお湯の温度で、同じようにドリップしても、淹れる人によって味が全然違うんですよ。不思議ですよねぇ」
「えー! すごいですねぇ。たしかに紅茶もとても美味しいです」
「コーヒーはあまり飲まれないんですか?」
奥さんがやさしく尋ねてくださったので、私は「飲めないことはないんですけど、口に残る後味が苦手で……」と正直に答えた。ちょうど奥さんにコーヒーが出されたタイミングだった。すると、奥さんが立ち上がり、両手でコーヒーカップのソーサーをそうっと持ち上げ、丁寧に私のテーブルに置いた。
「良かったら、味見してみてください! まだ口をつけてないから大丈夫! きっとここのコーヒーなら美味しく飲めますよ!」
「えっ、そんな、いいんですか!?」
初対面で、どこの馬の骨とも知れない私に、まだ口をつけていないコーヒーを真っ先に飲ませてくださるだなんて……! 私は突然差し出されたやさしさにびっくりした。旦那さんも「エチオピアだし飲みやすいと思いますよ」と微笑んでくださる。分厚い雲の隙間から急に日が射して海が輝くような、思いがけない喜びを感じながら、私はひと口いただく。
「わあっ、すごいフルーティーで美味しいですね!」
「そうなんですよ! 美味しいんですよ〜!」
「ありがとうございます、これなら飲みやすいです! 次は絶対にコーヒーを頼みます!」
奥さんはニコニコしながら、再びソーサーをそうっと持ち上げ、旦那さんの隣に戻っていかれた。お二人はそれぞれ違う種類のコーヒーを注文したようで、交互に飲み比べをして「美味しいねぇ」と語り合っている。キャロットケーキもお二人で半分こ。なんて仲睦まじいのだろうか。
「よくお二人でコーヒーを飲みにお出かけされるんですか?」
「そうなんです。私たち二人ともリタイアしたので、色々なお店に行ってるんです」
奥さんが楽しそうに返してくださり、旦那さんは名刺をくださった。Kさんご夫妻の連名で、裏にはお二人をイメージした可愛い動物のイラストが描かれている。お二人はいつも一緒なんだなぁ、とじんわり心が温まる。それにしても、お二人が60代半ばということに心底驚いてしまった。だって、お二人とも全身から明るく力強いエネルギーが溢れ出ているから。
でも、本当に驚いたのはこの先だった。何の話の流れだったのか、奥さんが「今年の2月に両足を骨折したんです」と笑いながら仰ったのだ。
「えっ、両足!? それは大変でしたねぇ!!」
「骨折したときに行った整形外科の先生が、当番の若い方で。『両足骨折でも松葉杖で歩けますよ。練習してみましょう』と仰るので、練習しようとしたんですよ。でも、全く歩けなくて! それを横で見ていた夫がすぐに車椅子を手配してくれました」
横の旦那さんは手を振りながら「あの状態で松葉杖なんて無理! 無理!」と苦笑いしている。
「それで4ヶ月間、車椅子生活でした」
「4ヶ月も!! 旦那さんがお世話してくださったんですか!?」
「はい、ぜーんぶお世話してくれました」
「えぇ、旦那さんすごいですね!!」
なんと聞くところによると「両足骨折なら普通は即入院ですよ」と、後から別の先生に言われたという。そりゃそうですよねぇ、その当番の先生はだいぶ大胆だ。慣れない車椅子生活は、言葉では言い尽くせないほど大変だったろう。でも、Kさんご夫妻が相変わらずニコニコしながら続きをお話ししてくださる様子を見て「本当の愛がここにある!」と感激してしまった。
旦那さんは4ヶ月間毎日、奥さんの体を拭いたり、包帯を巻き直したりと、身の回りのお世話をしていたらしい。それに加え、食事の支度や洗い物などの家事も。とてつもなく愛が深い。私が旦那さんの立場なら、同じようにできるだろうか? 病院では「入院せずにご家族がお世話をすることになると、ご家族が大変すぎて必ず家庭崩壊します」と脅されていたそう。想像できすぎて怖い。
「通院するたびに、先生や看護師さんがまず主人の顔を心配そうに見るんですよ。ご主人は大丈夫かって。私は順調に回復していったから全然心配されませんでした」
奥さんが可愛らしく思い出し笑いをする。そのお姿に、ますます心を打たれてしまった。なんなら、私は奥さんに恋をしてしまった。
奥さんは旦那さんを心から信頼しているから、4ヶ月もの長い間、自分の体や家のことを完全に任せられたのだろうな。「この人は嫌々お世話してくれているのでは」と相手を1ミリでも疑っていたら、罪悪感や自己嫌悪に襲われてしまうに違いない。自分の体を預けるのも怖いに違いない。愛を与えるよりも、愛を受け取るほうが、実は難しいのではないかしら。
でも、奥さんの心は軽やかでチャーミングで、旦那さんの深い愛を丸ごと受け取って、ただただ感謝していらっしゃる。そんな器の大きさを、奥さんの美しい笑顔から感じた。奥さんが自分自身をしっかり愛しているから、旦那さんの愛も素直に受け取れるのだろうなと思う。
「包帯を巻くのってすごく難しいんですよね。毎日主人が巻いてくれるんですけど、ちょっとキツいなぁというときもあるんです。そういうときは、イチからやり直ししてもらって」
奥さんがにこやかに笑う。自分の気持ちを遠慮せずに伝えられるしなやかさ、私にはあるかしら……!! ご自身や旦那さんを心から信じているからこそだなぁ。
「もう、ほんっとうに大変でした」
旦那さんはぶんぶんと手を振り、眉をひそめながら、ひそひそ声で仰る。でも、それはよそゆきのポーズで、実は奥さんをお世話できたことがとっても幸せだったんじゃないかしらと、お二人を見ていて感じた。だって、奥さんだけでなく旦那さんもずっとニコニコしていらしたから。奥さんがお話しされるのを、ずっと慈しむように見つめていらしたから。そもそもお互いに幸せじゃなければ、今仲良くコーヒーを飲んでいないはずだ。
もちろん、車椅子生活の間には、お互いに苦しいことも多かったと思う。困難が過ぎ去った今だからこそ笑えるのかもしれない。でも、決して挫けず、お二人の絆をより深める努力をされてきて、辛い試練を神様からの贈り物に変えたんだな……そう思うと、お二人がより一層まばゆく感じられた。「私も愛する人とこんなパートナーシップを築くんだ」と、強く強く思った。
「喧嘩されることはなかったんですか?」と私が尋ねると「ありましたよ〜!」と奥さんが頷いた。
「喧嘩して『もう入院する!』と私が泣いたら、主人が『そんなこと言うな!』と怒って!」
旦那さんもまた「ほんっとうに大変でした」と言って、ぶんぶんと手を振る。
うふふ、喧嘩のときですら、やっぱりお二人は愛し合っていたのですね。素敵だなぁ!
お二人と一緒にニコニコ笑いながら、心の中でこっそり呟いた。楽園で見つけた、私の憧れの愛のかたち。
▼ 楽園 Instagram
先日、足を怪我した鳩の文章をふたつ公開した。Kさんご夫妻に出会ったのはその後だったから、なんだか不思議な気持ちになった。あの鳩が「こんな素晴らしい愛もあるから、学ばせてもらいなよ!」と言って、お二人と引き合わせてくれたような気がする。
実は楽園とKさんご夫妻には、もうひとつ大きな気づきをいただいた。そのこともいつか、文章にしたいなと思っている。こうやって謎解きをするように、人生のストーリーがどんどん紡がれてゆくのだなぁ。とても豊かなことだ。