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小説 『おもかげのバニラアイス』

「喫茶おもかげ」のメニューには、バニラアイスしかない。

喫茶と名乗るからには、ホットコーヒーくらいあってもよさそうなものだが、ない。よく知らずに喫茶おもかげに入ったお客さんは、小さなテーブルが二つしかない狭い店内にまず驚く。そして「バニラアイス 500円 ※ドリンクメニューはございません」とだけ書かれた黒板を見て、「しまった」という表情をする。一度入ったらすぐに出るわけにもいかないので、たいていのお客さんは仕方なく座る。

しかしながら、店を一人で切り盛りする日奈子が、脚付きの銀の器にまん丸に盛ったバニラアイスと、紙ナプキンでキュッとくるんだ銀のスプーンを出すと、お客さんは一様に「おや」となる。

真っ赤なさくらんぼもミントものっていないバニラアイスは、淡いクリーム色にバニラビーンズが黒い星のごとく散っている。夜空との境目が曖昧な満月のような見た目そのままに、口当たりがとにかくなめらか。口の温度ですっと溶け、バニラの甘い香りだけがやさしく残る。初めてのお客さんはもれなく全員、このバニラアイスのひと口目で「ほぉ」だとか「まぁ」だとか思わず声を漏らす。

時折お客さんに「コーンのアイスはできないんですか?」と聞かれるが、日奈子はにこやかに「バニラアイスだけをシンプルに味わっていただきたいんです」と答える。そして心の中で「未央がそれを望んでいたので」と付け足す。お客さんは日奈子につられて微笑み、「バニラアイスだけでも美味しいですもんねぇ」などと納得する。

バニラアイスはもちろん日奈子の自家製で、毎日仕込む。材料はシンプルなのに、いや、シンプルだからこそ、手間がかかる。実直さが味になるから、バニラアイス作りは嘘がつけない。
まず卵黄と砂糖をすり混ぜる。次にバニラの鞘から黒い種をこそいで、鞘と種を牛乳に加えて温める。バニラの鞘はエイリアンの指のようで、日奈子はおまじないをかけている気分になる。さらにバニラの香りが移った牛乳を卵黄と混ぜて、こし器でこす。それを火にかけて、とろみがつくまでかき混ぜる。もう一度こし器にかけ、ボウルに氷水をあてながら粗熱を取る。これに生クリームを加えたものを冷蔵庫で丸一日寝かせてから、中古の業務用アイスクリームマシンにかける。そうしてようやく、バニラアイスが完成する。

喫茶おもかげをオープンしてから半年、日奈子は毎日バニラアイスを作っている。休むことなく続けられるのは、バニラビーンズの香りを嗅ぐたびに、かつて未央と観た『スモーク』のエンドロールが流れるからかもしれない。この余韻がずっとこの世に残るなら、エイリアンに身を捧げるのも上等だ、と日奈子は思う。

「やっぱり大学生ならさ、ミニシアター系とか押さえたほうがいいと思うんだよね。ほら、センスよくなる気がするし」

あの冬の日、そう言い出したのは日奈子だ。日奈子と未央は入学式で隣り合って以来、自然と行動を共にするようになった。未央と一緒にいるとき、日奈子が発するのはたいてい思いつきだった。それは相手に受け止めてもらえると信じているからこそ生まれる、ささやかでありきたりで、楽観的な思いつきだった。

「え~、ミニシアター系? そうなのかぁ」と未央はクスクス笑いながら、首にぐるぐる巻いた白いマフラーで口元を隠した。ベージュのコートから覗く小花柄のスカートが、歩くたびにひらひらと揺れる。チェック、水玉、ストライプ。レース、シフォン、プリーツ。柄や素材は色々だったが、未央はいつもスカートを履いていて、その裾が踊っていた。日奈子はそれを見るのが好きだった。

「絶対そう!センスよくなりたいよ~。あ、この映画ならちょうどよく始まるよ」

早稲田松竹のガラスケースに貼られた、皺だらけの頬を寄せ合う男女のポスターを確認すると、日奈子は未央の手を引っ張った。小さくてふわふわしていて、あったかい手。生まれたての雛ってこんな感じかな、と日奈子はふと思う。「日奈ちゃんの勢いの良さは才能だよねぇ。もう十分センスあるよ~」と言いながら、未央は相変わらず笑っていた。

今となっては、『スモーク』のあらすじを日奈子はほとんど覚えていない。どうやらセンスをよくする以前の問題だったらしい。しかし、美しくておかしみのあるモノクロのエンドロールだけは、日奈子は今でもはっきりと思い出せる。映画館の柔らかいオレンジ色の世界に戻っても、二人ともしばらく黙ったまま椅子に沈み込んでいたことも。

あのとき先に立ち上がったのは未央で、「日奈ちゃん、バニラアイス食べに行かない?」と切り出した。「未央はほんとにバニラアイスが好きだね~」と日奈子はからかったが、断るつもりはなかった。普段は何をするにも「日奈ちゃんのしたいことをしよう」と笑う未央が、バニラアイスのこととなると、良い意味で頑固になる。長いまつ毛をシパシパと上下させながら、少し早口で「あの喫茶店のバニラアイスを食べてみたくて」などと話す未央を見るのが、日奈子はとても好きだった。

未央の誘いでバニラアイスを食べに行ったのは数えきれない。アイスクリーム屋やファミレスのバニラアイスから、コンビニで買えるカップ入りのものまであらゆるバニラアイスを二人で食べたが、未央が特に惹かれるのは喫茶店のバニラアイスのようだった。

「さくらんぼもウエハースもなくていいの。もちろんコーンもいらない。バニラアイスだけが銀の器に盛られていたら素敵だなと思うの」

未央はよくそう話していた。しかし、それほどまでに潔い喫茶店のバニラアイスにはなかなか出会えない。まれに出会えたとしても、未央の微笑みの奥から、寂しさのようなものがちらりちらりと覗いているように日奈子は感じた。

「どうしてそんなにバニラアイスが好きなの?」

たまに思い出したように日奈子が尋ねると、そのたびに未央は「お母さんの好物だから、私も影響を受けちゃったのかな」と目を細めた。

それは決して嘘ではなかったが、ありのままの真実でもなかったと、日奈子は今でも思い返す。

あの日、『スモーク』を観た後すぐに入った喫茶店で、未央は来たばかりのバニラアイスを見つめてポツリとつぶやいた。

「私がバニラアイスにこだわるのは、お母さんに執着しているからだと思うの」
「お母さんに執着?」

日奈子はスプーンを握りしめながら返した。

「私のお母さん、田舎の貧乏な農家の末っ子だったの。九人家族で一合の白米を分けるような貧乏さだったらしいの。すごいよね。お母さんは中学生のときに修学旅行で初めて神戸に出たらしいんだけど、お母さんにとっては大都会だよね。神戸には年の離れたお兄さん、つまり私の伯父さんが住んでいて、自由行動中に喫茶店に連れて行ってくれたんだって。そこでお兄さんがバニラアイスを注文してくれたらしいんだけど、なんせお母さんは田舎者だったから、アイスなんて初めて見たの。しかも、ピカピカの銀の器入り。なんとお母さんはスプーンの使い方すら知らなくて、どうやって食べたらいいのか分からなかったんだって。今の時代じゃ考えられないよね。それで、ただただ見つめていたら、当たり前だけどアイスがどんどん溶けていったらしくて、内心焦ったそうなの。お兄さんが笑いながら食べ方を教えてくれて、ようやくひと口目を食べた瞬間、『こんなに美味しいものがあるんだ!』って椅子から転げ落ちそうなくらい感激したらしいの。お母さん可愛いよね」

暖房が効いているせいで、ガラスの器に満月の水たまりができていく。さくらんぼの真っ赤な色が花びらのように滲む。

「私、お母さんとバニラアイスを食べながらその話を聞くのが、昔から大好きだったんだ。お母さん、本当に嬉しそうに話すんだもん。いつか私もそんなに美味しいバニラアイスを食べてみたいなって言ってたの。でもね、私が中学校に入った頃からお母さんはバニラアイスの話をぱったりしなくなってしまったの。日奈ちゃんにも誰にもずっと言えなかったんだけど、私のお母さん、宗教にはまっているの。日曜日になると、生真面目な格好をした二人組が小さなリーフレットを持って家を訪ねてくることがない? あの宗教なの。お母さん、昔はインターホンにすら出なかったのに、いつの間にかあちら側の世界に行ってしまったの。おかしいよね。お母さんがその宗教に入ってから、誕生日のお祝いも、クリスマスパーティーも、お正月も、悪魔的だって言ってなくなっちゃった。仏教も、占いも、同性愛も、映画や小説も悪魔の仕業なんだって。女の人はスカートを履き、貞節を守ること。結婚前にセックスするのは厳禁。ケガや病気をしても輸血は絶対ダメ。死んでもお葬式はできないし、お墓参りもできないんだって。今は悪魔に世界を支配されているけれど、もう少しで『そのとき』がやってくるってお母さんは言うの。『そのときがきたら悪は一掃されて、選ばれしよき人だけが平和で幸せな暮らしができるようになるのよ』って言うの。でも私は、そんな楽園があるなんて信じられないし、たとえあったとしても私は楽園に入れない。お母さんに隠しているけれど、私はお母さんが悪魔的だと憎しみ憐れむ人間そのものなんだもん。お母さんが変わってしまって、お父さんも変わってしまったんだ。『そんなカルト宗教は今すぐやめろ。じゃなければ離婚する』ってお母さんに怒鳴るの。でも怒鳴れば怒鳴るほど、否定すれば否定するほど、お母さんは頑なになっていくの。信仰心を深めるの。私は昔のお母さんを取り戻したかった。幸せそうにバニラアイスの話をするお母さんに戻ってほしかった。でもそれは私の傲慢だということも分かるの。だって、お母さんは自分自身を幸せだと信じているから。誰もその人の幸せを否定できないもん」

「でも、未央は悪魔じゃないよ、絶対。私にとっては天使だよ」

すっかり溶けてしまったバニラアイスを見つめながら、日奈子はそう言うのが精一杯だった。

「日奈ちゃん、ありがとう。日奈ちゃんと出会えて本当に良かった。突然こんな話しちゃってごめんね」

未央は溶けてしまったバニラアイスをスプーンですくって、「次は溶ける前に食べなきゃね」と微笑んだ。

その二日後、未央は死んでしまった。夜中に酔って道路で寝ていたところをトラックに轢かれてしまったと、日奈子は人づてに聞いた。家族葬だから、連絡は控えてほしいらしいということも。未央がお酒を飲むところなんて一度も見たことがなかったから、そんな理由であっけなく死んでしまったなんて日奈子は信じられなかった。

でも、本当に酔っていたのかとか、未央が死にたがっていたのかとか、日奈子には結局真実が分からなかった。未央は望んでいたバニラアイスに出会えぬまま亡くなり、日奈子は人生で一番愛している人を失った。それしか分からなかった。

日奈子は新卒で入った電機メーカーで五年勤めた後、カフェやパティスリーのバイトを掛け持ちしながら製菓学校に通い、喫茶おもかげを開店した。大学時代からあらゆるバニラアイスを食べ、試作を重ねてきたから、味には絶対の自信がある。日奈子のバニラアイスを食べたお客さんは、必ず「こんなに美味しいバニラアイスは初めて食べた」と感激してくれる。でも、喫茶おもかげだけで暮らしていけないのは、日奈子は痛いほど分かっていた。高梨が喫茶おもかげに来たのは、電機メーカー時代の貯金が尽きようとするタイミングだった。

「噂には聞いてたけど、本当にバニラアイスしかないんですね。すごい自信だな」

カウンターの向こうでアイスを盛りつける日奈子を見ながら、高梨は声をかけた。

閉店五分前にのんびり入ってきたうえに、初対面の店主に対して褒めているのか貶しているのか分からない物言いをする男に、日奈子はむっとした。

「えぇ、まあ」

いっそ小さめに盛ってやろうかと日奈子は思ったが、ぐっとこらえていつものサイズを出した。高梨はとろんとした満月のようなバニラアイスを上や横から眺めてから、スプーンでひとすくいして口に運ぶ。

「食べたらきっと何も言えなくなるんだから」

そんな日奈子の思惑は外れ、高梨はおもむろに口を開いた。

「評判どおり、美味しいですね。いい素材を使っているし、作り方も丁寧なのが伝わってきます。ただ、とても寂しい味がします。ここではない遠い時間の中にある感じがするからかな。あっ、寂しい味なのは悪いことじゃないです。それは深みでもあるから。でも、今ここにある意味みたいなものも感じられたら、さらにいいなあと思いました。すみません、こんなの初めて来た客に言われたくないですよね」

高梨はひとしきり話し終えると、ひとすくい、またひとすくいとじっくりバニラアイスを味わう。思いもよらない言葉を投げかけられ、日奈子はエプロンの裾をギュッと掴むことしかできなかった。高梨は日奈子のそんな様子に構うことなく、再び話し始める。

「どうして喫茶おもかげという名前なんですか? やっぱり寂しさが滲み出てる。でも、僕はとても好きな名前です」
「喫茶おもかげという名前は、駅の名前からとったんです」

やはり褒められているのか貶されているのか分からなかったが、日奈子は思わず答えていた。高梨の言いたいように言われて悔しかったのかもしれない。もしかして、未央があの夜そうだったように、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「大学時代に亡くなった親友がバニラアイスが大好きで、しょっちゅう一緒に食べ歩いていたんです。その子と最後に食べたのが、コンビニで買ったバニラアイスでした。真夜中に、都電荒川線の面影橋駅のホームに座って食べたんです。その直前に行った喫茶店でも頼んだんですけど、二人とも全部溶かしてしまって。リベンジしようって言いながら食べたんです。真冬ですごく寒かった。アイスもカチカチで、さすがに溶けなかった。食べ終わったら、二人で手を握り合って暖をとろうとしたけれど、ガタガタ震えて。もう終電も過ぎているし、風邪をひきそうだし、うちのアパートに泊まっていきなよって彼女に言ったんですが、親がうるさいからとタクシーに乗って帰っていきました。それが彼女に会った最後でした。事情があって、彼女のお墓参りもできません。そもそもお墓があるのかすら分からないんです。喫茶おもかげは、面影橋駅からとったんです」

高梨はいつの間にかバニラアイスを食べ終えていて、日奈子の顔をじっと見つめた。太くてまっすぐな眉毛が、わずかに八の字になる。

「これは完全に思いつきなんですが、そのお友だちにおもかげさんのバニラアイスを食べてもらいましょう。今晩。今晩がいいと思います。今晩の日付けが変わる頃に面影橋駅のホームで待ってます。絶対来てくださいね。バニラアイスと、それに器とスプーンも忘れずに。これ、夜の分もお支払いしておきますから」

高梨はお札を数枚カウンターに置くと、日奈子が口を開く前にさっさと店を出てしまった。

店に一人取り残された日奈子はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、慌てて店じまいに取りかかる。「思いつき」だなんて、誰かさんにそっくりじゃないかと思わず苦笑いしてしまう。色黒でひょろりとしていて、何をしているのか、名前すらも知らない初対面の男の人。しかし彼の言葉には、手を振りほどかないでいいかもと思わせる力があった。

右手にバニラアイスやドライアイスが詰まった発泡スチロール、左手に近所の花屋で買ったコスモスの花束を携え、日奈子は夜の高田馬場駅に降り立った。大学卒業後も地元に戻らず東京の端で一人暮らしをしているが、高田馬場に来るのは卒業式以来、初めてだ。

肩を組んで陽気に校歌を歌う大学生の集団や、無表情で家路を急ぐ会社員が交差するロータリーを不器用に通り抜け、日奈子は面影橋駅に向かう。タバコやお酒や吐瀉物や色々な匂いがごちゃ混ぜになった早稲田通りから裏道に入ると、一気に呼吸がしやすくなる。

神田川沿いの歩道は、一人か二人が日奈子を抜かしていっただけで人の気配がない。鈴虫の鳴き声と、遠くで車が走る音が重なるだけだ。未央と二人でよく歩いた道。なんとなく心細いよねと、どちらともなく手を繋いで歩いた夜もあった。もう一生来ないと思っていたが、一人で歩けている自分に日奈子は驚く。秋の夜風が濡れた頬をなでる。「暑くもなく、寒くもないから、バニラアイスを食べるにはちょうどいい夜かもねぇ」とつぶやく。

終電が過ぎ、誰もいない路面電車の小さなホームで、高梨は待っていた。洗いざらした白い長袖シャツと黒のショートパンツ。夕方には見なかった大きなバックパックを背負っている。

「あぁ、おもかげさん、良かった! ちょうどいいタイミングですよ」
「ちょうどいいタイミング?」
「今晩は十五夜で、満月なんです。今が一年で一番月がきれいな時間帯。ほら、あそこに月」

高梨は重そうなバックパックをどさりとおろしてホームに座り、線路に足をぶらぶらさせながら南の空を指さした。

澄みきった夜空に、満月が煌々と輝く。高梨と少し間を空けて、日奈子もホームに座り、夜空を見上げる。

「おもかげさんのバニラアイス、見事なほど丸くて、表面がちょうどよく溶けている感じが、満月みたいだなぁと思って。満月の下で食べるのがぴったりで、お友だちも喜ぶと思ったんですよね。しかも今、お彼岸の時期でしょう? お友だちも天国から出かけてきやすいかなと」
「そっか、そういうことだったんですね……。ありがとうございます。じゃあ、アイス盛りますね。なんだか緊張しちゃいますけど」

日奈子は発泡スチロールからバニラアイスのケースや脚付きの銀の器を取り出した。しっかり凍ったままのアイスをディッシャーですくい、銀の器三つに慎重に盛っていく。高梨と自分、そして未央の分。いつも通り、完璧なまん丸。高梨と日奈子の間にリネンのキッチンクロスを敷き、バニラアイスを盛った銀の器と、紙ナプキンでくるんだ銀のスプーンを置く。コスモスの花束も横に添える。高梨の分を彼に手渡し、自分も銀の器とスプーンを手に持つ。

「じゃあ……いただきます」
「いただきます」

夜空と手の中の満月を交互に見つめ、口に含めながら日奈子は泣いた。二つの満月が滲み、夜に溶けていく。

隣の未央のバニラアイスも、少しずつ形を変えていく。日奈子は自分の分を食べ終えると、未央のバニラアイスにも手を伸ばす。「未央の望んでたバニラアイス、私作れたかな。天国のバニラアイスのほうが美味しいかな」「守ってあげられなくてごめんね」などと心の中で渦巻いては、涙がこぼれる。柔らかな夜風が日奈子と高梨の間を通り抜け、コスモスがかすかにゆらめく。

高梨はずっと黙っていたが、日奈子が二人分のバニラアイスを食べ終え、すすり泣く音が落ち着くと、口を開いた。

「おもかげさん、良かったらコーヒー飲みませんか」
「えっ、コーヒー?」
「僕、経堂にあるコーヒースタンドでバリスタやってるんです。豆の焙煎とかも任されてて。おもかげさんのバニラアイス、絶対うちの深煎りコーヒーに合うと思って。道具一式持ってきたんで、淹れますね」

高梨は日奈子の返事を聞く前にバックパックを開け、登山用のバーナーやらドリッパーやらを手際よく広げ始めた。

ケトルにミネラルウォーターを入れ、バーナーにかける。その間にハンドミルで豆を挽き、ドリッパーにフィルターと豆をセットする。コーヒーの香ばしく甘苦いような香りが漂う。お湯が沸いたら、ドリッパーに静かにお湯を注ぐ。コポコポコポとコーヒーが落ちる音が月夜に響く。小さな命の心臓みたいだな、と日奈子は思う。

コーヒーサーバーにコーヒーがたまると、高梨はサッとドリッパーを取り、マグカップにコーヒーを注いでいく。きっかりマグカップ三杯分。日奈子はさっきと逆の立場でマグカップを手渡されると、両手で包んだ。少し冷えた体に心地よい温もり。ひと口飲むと、まろやかな苦味が口に残っていたバニラアイスの甘味と合わさり、穏やかでやさしい何かが全身に染み渡っていくような感覚を覚えた。

「すごく、美味しいです……」と日奈子はつぶやくように言った。夜色のコーヒーに月明かりが映り込む。

満月を眺めながらコーヒーを飲んでいた高梨は、日奈子を見ると眉毛を八の字にして笑った。

「おもかげさん、お店の名前に喫茶とついているのに、コーヒーは出さないんですか?」
「それ、いろんなお客さんに聞かれるんです……。コーヒーも出したいなと思っていたんですが、バニラアイスにばかりこだわっていたら、コーヒーの勉強をする機会を逃してしまって。お恥ずかしいんですが、そのままずるずると。でも、こんなに美味しいコーヒーを飲んだら、やっぱり真面目に勉強しなきゃなと思いました」

高梨はうなずくと、また満月のほうに顔を向けて話す。

「どうして人はこんなに苦いものを飲もうと思ったのか、不思議なんですよね。でも、なぜかこの苦味が、人生の切なさとか悲しさを包み込んでくれるような気もするんです。辛い過去がなくなるわけじゃないし、後悔も残ったままなんですけど、それらを引き受けてこの先も生きていくことを、静かに支えてくれるというか。だから、喫茶おもかげでコーヒーも出すようになったら、きっとお客さん喜びますよ」
「そうかぁ……」
「大切な記憶は大切なままで、そこから道をのばしていけるといいなって僕はいつも思ってます。いつでも帰れるし、前にも進む道。偉そうにすみません」
「いえ、本当にありがとうございます」

少しの沈黙の後、高梨はまた口を開いた。

「あっ、僕がおもかげさんにコーヒー豆の選び方や淹れ方をお教えするのもいいかも。週一くらいでお店を手伝うのもありですね」
「えっ、嘘でも嬉しいです」
「失礼な。僕は思いつきで話すことが多いけど、嘘はつきませんよ」
「そうなんですか」

高梨は日奈子の返事を聞いているのかいないのか、バーナーに火をつけながら話す。

「夜明けまでまだまだ時間があるし、もう一杯コーヒー淹れましょう。そうだ、もしまだバニラアイスが残っていたら、今度は同時に味わってみませんか」

日奈子は「もちろんです」と思わず笑みがこぼれる。

夜空には、バニラアイスのような満月が煌々と輝き続けていた。

この短編小説は、かつて「さなみ七恵」とは別のペンネームで活動していたときに執筆した作品です。長いあいだ非公開にしていましたが、誰かにとっての光になるかもしれないと思い、こちらのnoteで公開します。近日中に他の小説も公開予定なので、もしお時間があったら読んでいただけると嬉しいです。

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