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一縷の美弱
「美弱」とは、人やものがもつ美しい弱さです。弱さなので、強さのように主張せず、控えめに存在しています。特に人の弱さは、これまで「出てこないで!」と隠されがちだったため、余計に見えにくいです。でも、どんなに隠されようと、それらは微弱な光を放ち、「ここにいるよ」とささやいています。とても美しいと私は思います。
弱さが美しいだなんて、信じられないかもしれません。弱さなんて忌まわしいものは、なくなってしまえばいいとも思うかもしれません。でも、自分の弱さをじっと見つめて、その存在を認めてあげると、その人は「ありのままの美しい姿」になっていきます。自然体でいられるので、その人の本来の素晴らしさが滞りなく外に放たれて、より輝くのだと思います。
何より、弱さを隠さず、周りの人に頼ることで、「頼らせてくれてありがとう」「頼ってくれて嬉しい」という愛の循環が起こります。また、「短所は長所の裏返し」と言われるように、弱さ自体がその人らしい魅力にもなるのです。
私は人やものの美弱を見つめるのが好きです。あっ、でも、幼い頃から自然とそうしてきたので、好きというのもちょっと違うかもしれないですね……呼吸のような感じです(「呼吸するの大好き!」という人は、あまりいなさそうですよねぇ)
大人に怒られないように、見捨てられないようにと怯えながら周りを観察したのが、美弱な生き方の始まりでした。よくよく観察すると、怒っている大人や不機嫌な大人は、ただ怒ったり不機嫌になったりしているのではなく、その奥にある弱さを必死で隠そうとしているのが分かりました。でも、チラリと覗くのです。砂粒よりもっと小さな、産毛よりもっと細い弱さが見えました。
「見て!ここに弱さがあるよ!」なんて口に出せば、大人たちがますます怒るのは目に見えています。だから私は、弱さをこっそり見つめるようにしました。そもそも引っ込み思案で、口に出す勇気もありませんでした。不思議なことに、どんなに怖い人に思えても、弱さを見つめていれば怖さが和らぎました。
これまで39年間、人やものの弱さを無意識に見つめてきたのですが、ここ数ヶ月で大きな発見をしました。それは、私が自分自身の弱さを認めて、隠さずに外に出せば、私と関わる相手も弱さを見せてくれるようになるということです。カーテンがそよ風に揺れるような、本当にささやかな見せ方なのですが。39年間生きてきてようやく、このことが分かりました。
弱さを隠そうと、私はずっとずっともがいてきたけれど(そして全然隠しきれていなかった)、もう隠さないで生きようと決めたとき、心の真ん中に喜びの泉が生まれた感覚になりました。そして、誰かと出会うと、その泉から清らかな喜びがこんこんと溢れるのです。
「こんなこと話すつもりじゃなかったんだけど」
「誰にも話したことなかった」
幾人かの人はそんな風に言いながら、ひそやかに抱えていたであろう弱さを私に見せてくれました。その弱さは、体の表面で微かに光る弱さと、細い糸で繋がっているようでした。本当に細く、そっとゆっくり扱わないと切れてしまいそうな一縷(いちる)です。
奥底の暗がりにいる弱さを見せてもらえるたびに、私の胸はいっぱいになります。叶うならば、その人をぎゅっと抱きしめたくなりますが、そうすると糸が切れてしまいそうです。もう一生その弱さが現れなくなるかもしれない。
だから私は、その人の話を聞きながら頷くばかりです。そもそも、私には人を抱きしめる強さもないのです。アドバイスをしたり、励ましたりする強さもないので、ただその人の弱さを「美しいなぁ」と慈しんでいます。そして、この弱さがどんなに素晴らしいか伝えたいと思ったときに、私なりの精一杯の言葉で伝えています。
相手にその人の美弱を伝えたとき、言葉では反応が返ってこなかったけれど、たしかに届いたんだなぁと思うことがありました。散歩中にその人を思い出したとき、耳元でそよ風がやさしく歌ったのです。本当にあるのかないのか分からないほどの微弱さで、愛を贈り合えたことを幸せに思っています。あの日のそよ風の歌をたまに口ずさみながら、私はこれからも美弱に生きていきます。