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小説 『餃子味の涙』

「好きな子ができたから、君とは別れる」

スマホのディスプレイの向こう側で、陽介君は前置きもせず言い放った。たとえビデオ通話でも、久しぶりに恋人の顔が見られる。そう浮かれていた私の視界は一瞬で白く霞んだ。陽介君を繋ぎとめようと、舌をもつれさせながら必死で言葉を発するものの、彼の反応はなかった。こちらをまっすぐ見据えている気がしたけれど、スマホを隔てているから決して見つめ合えない。陽介君のまなざしに温度がないのは痛いほど分かった。ディスプレイに小さく映る私の顔は青白く、リップを塗った唇だけがテカテカと揺れていた。

「その人と、もう付き合ってるの?」

しばらく黙っていたくせに、陽介君は「うん。一月から」とすぐさま答えた。彼の目に柔らかくて残酷な光が宿る。二ヶ月も前から。「会いたいな。おうち行ってもいいかな?」とLINEしても「ごめん。難しい」としか返ってこなかったあの夜には、既に。緊急事態宣言が出ているし仕方ないと自分に言い聞かせてきたけれど、心臓はギュッと握りつぶされたかのように苦しかった。陽介君のまなざしが自分に向けられていないこと、私の魂はとっくに知っていたのだろう。

「絵梨と僕が違う道を歩むのは、ずっと前から決まってたと思うよ。じゃあ切るね」

容赦なく終了されたビデオ通話の夜から、生き地獄のような日々が続いた。狭いアパートで一人きりでリモートワークをしていると、不意に涙が溢れる。休日は布団をかぶり、うつらうつらとするか、彼のSNSをスマホで覗き見るばかり。

どうして私じゃ駄目だったんだろう。せめて最後に抱きしめてほしかった。もしかして「やっぱり君しかいない」って連絡がくるかも。人の恋人を横取りするような女、バチがあたればいいのに。私なんて生きてる価値ない。

悲しみの渦に飲み込まれ、一ミリも可能性がない楽観に逃げ、突発的に噴き出る憎しみに悶え、世界から見放されたような苦しみに襲われる日々だった。

でも、心がこんなに参っているのに、何かしら食べて、排泄して、食べてを繰り返さなければならない。薬局にトイレットペーパーを買いに行った帰り道、「人間って面倒だ」とつくづく思った。土曜日の昼間に出歩くのは久々で、知らぬ間に満開になっていた桜と青空のまぶしさに刺されそうだった。

のろのろと桜並木を歩いていると、私よりもさらにゆっくりと歩く女性が前方に見えた。両腕をピンとのばして、いかにも重そうなエコバッグを二袋携えている。どちらもボコボコと出っ張っていて、片方からは今にも長ネギが転げ落ちそうだ。

あっという間に彼女に追いつき、私は素早く横を通り過ぎた。ベージュのパーカーと黒いリネンのマキシスカート。耳の形がきれいに出た黒髪のショートカット。

「もし良かったら、途中まで持ちましょうか?」

五歩ほど先を歩いた私はくるりと振り返り、気づけば彼女にそう聞いていた。彼女は面食らった様子で「えっ?」と言い、そのまま黙った。

「あっ、荷物です! 重そうだなと思って……」

怪しまれないように慌てて付け足した。私、一体何を言ってるんだ。人に親切にする余裕なんてないはずなのに。彼女は丸くしていた目を細め、「いいんですか?」と笑った。目尻に少し皺。私より十歳くらい年上だろうか。

「ついたくさん買い込んじゃって。このペースで歩いていたら、日が暮れちゃうと思ってたところなんです、ふふ」

マスクをしていたから表情は見えにくかったけれど、目元には温かみが感じられた。透き通ったべっ甲色の瞳に吸い込まれそうになる。

「桜並木を抜けたところにアパートがあるので、そこまで手伝ってもらえると嬉しいです。そうだ、もし良かったら餃子パーティーするので食べていきませんか? パーティーって言っても私一人なんですけど。あっ、でもこんなご時世なので、気になるようなら断ってください!」

今度は私が目を丸くする番だった。餃子……?

陽介君と別れて以来、食事が苦痛でならなかった。何を食べてもまるでガーゼを噛んでいるかのように無味。もともと苦手だった自炊を尚更しなくなり、生の食パンを野菜ジュースで流し込む毎日。だから、よく知りもしない人と食事をするだなんて、しんどいだけに決まってる。いや、元気なときだって願い下げだ。
でも、彼女の餃子なら食べてみたいかも……。彼女の細い目から光がこぼれるのを見て、なぜかそう思った。

「あの、本当にいいんですか……? そしたら、お邪魔させてください」

彼女は「ぜひぜひ」と言いながらますます目を細めて、「じゃあ、こっちの袋をお願いします」とエコバッグを私に手渡した。キャベツ一玉やら何やら色々入っているらしく、腕が地面にぐいっと引っ張られる。右手にトイレットペーパー、左手に今初めて会った人のキャベツを提げて、彼女のアパートへ向かった。

彼女の部屋は、木造アパートの錆びた階段を上った一番奥にあった。玄関を開けるとすぐに台所で、小さなダイニングテーブルが置かれていた。

「本当に助かりました。そこのアルコールスプレーで消毒してくださいね。飲み物、ジャスミンティーで大丈夫ですか」

彼女は買ってきた大量の食材を片付けながら、冷えたジャスミンティーをグラスに注いでくれた。マスクをずらしてひと口飲むと、喉がキュッと縮まる。グラスを片手にそれとなく台所を見回す。流しの目の前の出窓には、木べらや菜箸が入ったガラス瓶、スプーンがささったままの塩の容器なんかが、所狭しと置かれている。時間をかけて、彼女にとって一番しっくりくる空間に育てられていった気配がした。

「じゃあ早速作りますね。適当にくつろいでいてくださいね」
「いや、手伝います! 料理は苦手ですけど、私にできることがあれば……」
「ううん、気を遣わないで。でもそうだな、包むのは一緒にしましょうか。楽しいから」

彼女の発する言葉には、本当にそのまんまの意味なんだと安心していい響きがあった。

「さてと」とつぶやきながら、彼女は買ってきたばかりのキャベツをトントントンと細かく刻み始めた。ボウルにいっぱいになったら塩をまぶす。ニラや長ネギ、生姜、にんにくも刻んでいく。そっか、この時点でもう餃子の香りがするんだな……。マスクをつけたまま、私は思わず鼻をスンと鳴らす。

「餃子パーティー、よくするんですか?」

長ネギ、生姜、にんにくのみじん切りと調味料を加えた挽き肉をこねながら、彼女は愉快そうに答える。

「そうですね。『今日は餃子だ!』って思い立ったら。仕事とかで嬉しいことがあったときとか、逆にすごく落ち込んだり悔しいときも、ふと食べたくなるんですよね。だからしょっちゅうパーティーしてます、ふふ。作れるだけ作って、ひたすら焼いては食べ、焼いては食べるんです。最高記録は七十二個かな」

「ひえー! すごい!」と思わず大きな声をあげてしまう。キャベツとニラの水気をギュッと絞って挽き肉に加える様子を見つめながら、彼女は今日どんな気持ちなんだろうと想像する。

「はーい、包みましょう」

山盛りの肉ダネのボウルをテーブルの中央に置き、私たちは向かい合う。
初めて餃子を包む私に、彼女は丁寧に包み方を教えてくれた。最初は皮が破けたり、ひだの幅が揃わなかったりしたのが、だんだん格好がついてきて嬉しくなる。途方もない量だとひるんでいたけれど、いつの間にか、すべすべとした餃子の皮に触れる指先だけに集中していた。一つひとつ、着実に包む。

「ボウルが空っぽになる、この瞬間がたまらなくて」

私の二倍くらいのスピードで黙々と包んでいた彼女は口を開き、餃子が整列する大皿の隙間に最後の一個をそっと置いた。美しい曲線の餃子たち。

「さ、さ、焼きます!」と言いながら、彼女は熱したフライパンに餃子を並べられるだけ並べていく。すぐに水を注ぎ、ジャッ! と水が荒ぶるのを鎮めんとばかりに蓋をする。

もくもくとした湯気で餃子の姿が隠れ、雨がトタン屋根を叩くような賑やかな音が響く。ニラやにんにくの香りも一気に押し寄せてくる。すると、餃子のダイナミックな変化につられるように、私の鼻の穴がフスフスと広がり、胃がもぞもぞと動き始めたのだ。

私、お腹が空いた……?

陽介君との別れの夜以来、初めて「食べたい」と思った。もう戻ってこない気すらしていた「生きるための欲」は、私の中にまだしっかりとあったのだ。

雨のような音から次第にパチパチと乾いた音に変化し、彼女は「もうそろそろかな」と蓋を開けた。湯気から現れる、透き通ってぷりっとした餃子。ごま油をひとまわしした途端、香ばしい香りが台所に満ち満ちる。私たちの待ち遠しい気持ちと合わさる。

彼女が慣れた手つきで餃子を大皿にひっくり返すと、こんがりと焼けた茶色い皮がお目見えした。私は「わあ!」と歓声をあげ、彼女は今日一番急いでいる様子で「食べましょう食べましょう!」と言う。

少し緊張しながらマスクを外し、箸で餃子を掴む。表面のサクッとした様子が箸から伝わり、よだれがじゅわりと出る。彼女におすすめされた通りに酢醤油をちょんとつけ、一気に頬張る。

皮はサックリとしつつ、もっちり。キャベツの甘みと香味野菜の香りが合わさった豚肉はむぎゅっとしていて、噛むと熱々の旨味と湯気で口中が満たされる。

ほぼ同時に頬張った私たちは自然と目を合わせ、「すっごい美味しいです!」「ね~! 良かった~!」と喜び合った。マスクを外した彼女が笑うと、頬にぴょこんとえくぼができて、ショートカットによく映える。まなざしは嘘をつかないんだなと思う。

「実は私、最近恋人に浮気されて別れたんです。あ、でも、彼にとっては浮気じゃなかったのかな。ただ単に私が過去の人になっただけなんだと思います。それが結構こたえて、ずっと食欲がわかないし何を食べても味がしなくて。でも今日、すごく久しぶりに『食べたい!』ってなって、餃子も本当に美味しくて……。ありがとうございます」

私がぽつりぽつりと話すと、彼女はべっ甲色の瞳をまっすぐ私に向けて「『彼にとって』なんて、考えないでいいと思います」ときっぱり言った。

「相手が何を考えているかよりも、自分自身の感情を大切にしてほしいです。見ず知らずの私の荷物を持ってくれるくらい、とてもやさしい人だから余計に。あなたは決して悪くないです」

餃子を齧りながら、涙がぼたぼたとこぼれて止まらなくなってしまった。

一ヶ月も泣き続けて、もうカラカラに乾いていてもおかしくなさそうなのに、まだ溢れるのか。でも、これまでの涙とは少し違う。しょっぱいけど、美味しい餃子の味がして、温もりがあった。言葉やまなざしそのままのやさしさを手渡されて、あの夜以来、初めて世界と繋がり直せたような気がした。

彼女は箸を置き、目を細めた。

「狂いそうなほど憎い気持ちとか、やり場のない怒りもどんどん生まれて、とても苦しいと思います。少なくとも私はそうでした。そんなときは、自分のために何かを作るといいかもしれないです。私みたいに餃子でもいいし、お味噌汁や卵焼きでもいいと思います。料理じゃなくても、日記を書いたり、絵を描いたり、花を育てたり、どんなことでもいいんです。苦しみの特効薬にはならなくても、時間をかけて心を癒やすためのエネルギーにはなってくれるはずです。本当は苦しみが一瞬で消えたら最高なんですけどねぇ。生きていくのって大変ですよね。さあ、まだまだ餃子があるから食べましょう! 第二弾、焼きますね」

彼女は立ち上がり、フライパンに火をつける。

私は顔をぐしゃぐしゃにしながら、自分で包んだであろう不格好な餃子を食べた。しょっぱい涙の味がしたけれど、これまでも、これからも、この餃子よりも美味しい餃子には出会えない気がした。

生まれて初めて書いた小説です。コロナ禍でした。
こんなやさしい言葉、私が書いたのか…神様が書かせてくれたのだろうな…ありがとうございます泣。

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