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悲劇のヒロインを卒業させてくれた寝床の虫たち
※虫の話が出てくるので、苦手な方はご注意ください
もう二十年近く昔のことです。新卒で芸術の島と呼ばれる瀬戸内海の直島のホテルに就職したとき、島内の古民家を社宅として借りられることになりました。直島の古民家と聞くと、ちょっとおしゃれな響きがありません?私も神奈川の実家から移り住む前は、素敵な一人暮らしが始まると胸を弾ませました。
しかし、私の期待とは裏腹に、その古民家は本当にただの古い一軒家で、おしゃれさのカケラもありませんでした。玄関を開けた途端、埃とカビが混ざったような匂いが鼻をつき、引越しの手伝いのためについて来てくれた父と二人で無言になりました。
日に焼けてキツネ色になった畳を踏むと、今にも底が抜けるのではないかと不安になるほど沈みます。
「ひえええ、これはすごいなぁ」
父が妙におどけた調子で言ったのは、これから一人暮らしをする娘が気落ちしないように気遣ったからかもしれません。
父が実家に戻り、いよいよ本格的に一人暮らしが始まると、私は二階の南向きの和室を寝室にしました。広い家の中で一番日当たりがよく、畳の沈み方もマシで、障子を開けると海が見えたので、一番安心できる場所だと思ったのです。六畳ほどの狭い部屋に、部屋干しのラックと布団を置き、家にいるときはたいていそこで過ごしました。
ホテルで働き始めて一週間ほど経った頃でしょうか。まだ新しい環境にも仕事にも慣れず、その夜もヘトヘトになりながら帰宅しました。ピーマンとウインナーの炒め物(当時はこれしか料理できませんでした)を台所で立ったまま食べた後、寝室でくつろごうと二階に上がりました。電灯の紐を「コッチ」と鳴らしながら引っ張ると、電灯が「ジーー」と答えながら部屋を照らしてくれます。
す、る、と!!!布団と障子の間を、何か細長いものが動いた気配を感じました。目をやると、なんとムカデがいるではありませんか!!立派な!!
「わぁっっ!!」
私は大きな声で叫びました。叫ぶしかなかった。すると、ムカデは驚いたのか、よりによって敷き布団の下に潜り込んだのです。私の一番安心できる場所ーーーっっっ(泣)
家には殺虫剤もなく、どうしたら良いか分からず、私は泣きながら一階に駆け降りました。「刺されたらどうしよう」とわんわん泣き、誰かにこの恐怖を聞いてほしくて大学時代の男友だちに電話をかけました。彼は当時占い師をしていて、いつも温かな言葉をかけてくれる心優しき男性でした。どうにかして助けてくれるかもしれません。
「はっはっは」
「布団の下にムカデがいる」と泣きながら彼に訴えると、電話の向こうの彼は大笑いしました。
「それは大変だねぇ、七恵ちゃん」
どうして笑うのー!!しかも他人事みたいに!!私はさらに泣きました。ひどい、ひどいよ!!すると、彼はゆったりと笑いながら「うん。大変だと思うけど、僕は東京にいるから何もできないし」と言いました。
私は「そりゃそうだよね」と納得したそぶりを見せながらも、内心ムッとしました。あまり寄り添ってもらえなかった気がして恨めしく、そして悲しくもなりました。
男友だちとの電話を切り、私は観念して再び二階に上がりました。翌朝も仕事があり、寝ないわけにはいかないのです。ムカデはまだいるのだろうか……と恐る恐る敷き布団をめくると、そこには何もいませんでした。良かった!!ひとまず安心したものの「でも、この家のどこかに潜んでいるんだよねぇ?!」と思うと、また不安が押し寄せます。
別の寮に移動できることになり、結局その古民家には三ヶ月ほどしか住みませんでした。家にいるときはいつも心の片隅で「ムカデが出るかもしれない」と恐れていましたが、あの晩以来、ムカデを見ることはありませんでした。
さて、私はこの八月に離婚し、直島以来、十六年ぶりの一人暮らしを福岡で始めました。ここまで読んでいただいたら察してくださっているかもしれませんが、はい、新居にも出たんです。虫さんが。ただしムカデではありません。古い本をめくると見かける、小さな小さな茶色の虫です。チャタテムシと言うそうです。ここでは「本の虫」と呼ばせてください(本の虫と呼ばれるのは、本来「シミ」という種類だそうですが……)
新居で初めて本の虫を見つけたのは、入居初日でした。引越しの荷物が来る前に雑巾がけをしていたら、台所の隅に、たった一匹いたのです。そのときは、さほど気にかけませんでした。ごめんなさいと心の中で謝りつつ、ティッシュにくるんで始末しました。
事が大きくなったのは、引越しの二日後だったでしょうか。お風呂上がりに布団の上でくつろいでいると、すぐ横の床に本の虫が何匹もいたのです……!!ギョッとして、やっぱり昔と同じように「わぁぁぁっ!!」と叫びました。
スマホで調べると、本の虫は湿気の多い場所で大量発生することがあるらしいのです。大量発生!!?我が家はそんなに湿気が多いとは感じていなかったのですが、でも、実際にたくさんいる(号泣)!!
その日から、寝室、お手洗い、台所、廊下……家のいたるところに本の虫がいるのを発見しました。私は見つけるたびに半べそになり、ティッシュで潰していました。ネットでは燻煙タイプの殺虫剤で駆除することが薦められていましたが、殺虫剤を使うのにも抵抗がありました。本当は、できれば自分の都合で殺したくないのです。
実は、新居でのトラブルは本の虫の発生だけではありませんでした。家の鍵がうまく開け閉めできない。深夜に謎の物音がする、などなど。それらが入居して数日のうちに一気に押し寄せたので、私は毎晩、大泣きしました。自分でも聞いたことのない悲痛な声で泣き続けました。
「せっかく新しい暮らしが始まったのに、お家で安心して過ごせないだなんて」
「私の決断は間違っていたのだろうか」
「私は一人暮らしに向いていないのだろうか」
「怖いよおおお」
「悲しいよおおお」
家にいても居心地が悪く、どんどん気持ちが沈んでゆきます。でも、ある朝、歯を磨きながら自分の黒目をじっと見つめていたら、ポンと言葉が浮かんだのです。
「あ、私、自己否定したかっただけなんだ。そのために家の問題点をわざわざ生み出してたんだ」
……えええええええ!!!?そうだったのか!!!この大発見を信頼する友だちに伝えると、彼はこう言ってくれました。
「悲劇のヒロインをやりたかったんですね😊」
あぁぁ、悲劇のヒロイン……今回のトラブルや直島のムカデ事件だけでなく、これまでに起きた全ての辛い出来事の仕組みが解明されたようでした。私、悲劇のヒロインになることで、周りに愛されようとしていたんだな、と。「こんなに悲劇が起こるんです……」と苦しみをアピールすることで「七恵ちゃん辛いね」「かわいそう」「助けてあげる」などと誰かに気遣ってもらい、その人からの愛をもらおうとしていたのです。
たとえ周りにアピールせずとも、自分に対して「私は悲劇が起こらないと愛されない」と繰り返し植え付けていました。だから、辛い現象を自ら生み出していた。うぎゃぁぁぁ。
本当は、悲劇のヒロインにならなくても、もう既に愛されているのです。生きてここにあるだけでいいのだと、大切な友だちに、別れた夫に、親に、神社に、公園の木々や鳥に、何度も教えてもらってきたのでした。ある人が「みんな神様の無償の愛を受け取って生きてる。みんな息をするのにお金払ってないでしょう?」と書いていたのも思い出しました。そうだったよぉぉぉ、ずっと愛されてた!!!
「自分はずっと悲劇のヒロインをやりたくてやっていた」
この事実を受け入れたうえで「もう悲劇のヒロインは卒業して、喜びに溢れるヒロインになる」と決めました。四十年間もお疲れ様でした。
ででで、本の虫の問題はどうなったかというと「本の虫が家にたくさんいたって、別に生きてゆくのに何も問題ない。今健康に生きてるし」と思うことにしました。そして、本の虫を探すのはもうやめました。「いるかも……」とビクビクしながら床を見ると、100%見つけちゃうからね!!
「見ない」と決めたら、本の虫はほとんど見なくなりました。まだ家にいるのかもしれないけれど、見なかったらいないのと同じ。たとえ見ても、気にしない。「こんにちは〜」と声をかけておしまい。「気にしない」ということすら意識しなくなったら、多分本当にいなくなると思う。私の意識が生み出している現象だから。
問題に意識を向けすぎると、その問題が深刻になったり、別の問題が次々に生まれたりする傾向が強くなっていると最近感じます。「ずっと問題を解決し続けたい人生」になっちゃうんだな。逆に、心地よいことや喜びにフォーカスすると、それらの循環が大きくなることも実感しています。だから、私は軽やかに、ご機嫌に生きたい。そもそも問題はない、とも思う。
今のお家は、不動産屋で色々な物件を紹介してもらった際、写真を見た瞬間に「ここにする!!」と心に決めたところでした。きらりと光っていたのです。
入居直後の悲劇のヒロインをやっていたときは「別の場所に引っ越そうか」とも考えてしまったけれど、今あらためて「やっぱりこのお家にして良かった」と心から思います。お家を丸ごと、どんどん大好きになってる。間取りも照明も玄関のタイルもシャワーヘッドも、何もかも。お家も私の想いをやさしく受け入れてくれて、お互いにのびのびと呼吸している気がする。
遠い昔のムカデさん、本の虫さんたち、命がけで大切なことを教えてくださり、本当にありがとうございました。おかげさまで、悲劇のヒロインをやめました。