私たちが「怪物」にならないために
ちょっと物足りないな。
私は坂元裕二作品が大好きだ。だから今回、私は是枝裕和とのタッグを組み、何だか大きな賞をとったという話に期待を膨らませていた。そしてそんな私が作中と同様の土砂降りの中映画『怪物』を鑑賞しに行って思った最初の正直な感想はそんなものだった。
その「物足りなさ」を振り返った時、『怪物』には坂元作品の特徴とも言える巧みなセリフ回し、SNS上で言うところの”名言”が少ないことに気がつく。
上記を始めとする私の好きなセリフたちは、この言葉に心を動かされたこと、すずめやかごめや星砂に共感できたというその事実だけで、どんなしんどさもオセロの黒が白にひっくり返るみたいに自分の大切なものとして誇ることができるような圧倒的な力を私の中で持っていた。
けれど『怪物』ではそうした”名言”たちは鳴りを潜め、それが冒頭の私の物足りなさにつながる。
唯一、印象的に響くセリフは、校長先生が終盤で湊に告げる「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」ひとつだけだった。
だがこのセリフは、思わず涙してしまいそうに思えて、実際、同性に恋愛感情を抱くことに苦しむ湊に向けて発される言葉としては決定的に間違っている。間違っているし映画の中でも決して肯定はされていない。なぜなら彼らが苦しみながらそれでも手に入れた小さな幸せ──少年たちの想像の中でしか走り出すことのないあの廃電車での日々──すら、大人たちによって、自然の大きな力によって、結局奪われるのだから。
そこで思い出す。坂元裕二はたしかに巧みなセリフ回しが特徴的だが、そのレトリックに溺れることなく、緻密な演出とストーリーによってその主題を描いてきた脚本家であると。
『怪物』は、それぞれ湊の母親、教師、子どもたちの3つの視点から描かれる。そして印象的なキーワード「怪物だあれだ」の言葉から観客たちは怪物探しを始め、最終的に「全員が怪物なのだ」という結論にたどり着く。ただこの構成は、一つの事実が複数の視点から見ると違って見えるというような単純な演出には思われない。
少し想像してみよう。もし、この作品が子どもたちの視点のみで構成されていたなら、私たち観客はどんな反応を示していただろうか。
映画はその歴史において長い間プロパガンダとしての役割を担ってきた。そう映画は観客の目の前に大画面で他者の顔を映し出すことで、観客をその他者に乗り移らせ、「感情移入の化け物」にするのだ。
少年たちの純粋な戸惑いを、小さな幸せの時間を、それすら簡単に奪い去られてしまう苦しみを前にして、観客たる私たちはきっと彼らに共感し、涙し、親や教師といった周りの登場人物たちに怒りを向けて、責任を負うべき「怪物」探しに興じるだろう。だがそうして自分は傷つかない位置で一方的に加害者と思しき人々に非難をぶつける私たちの姿はきっと映画の中の誰よりも怪物に似ている。
けれどこの作品の観客たちにそれは許されない。すでに私達は、母親や教師の視点から彼らにも共感を余儀なくされており、子どもたちに乗り移って私達が挙げる非難の声は、そっくりそのまま大人としての私達に浴びせられるからだ。
また『怪物』のラストでは湊と依里が二人で電車を抜け出し、晴れた空の下、フェンスのなくなった線路に向かって駆けていく。一見ハッピーエンドにも見えるこのシーンはしかし、二人がいたはずの廃電車が土砂崩れに巻き込まれているようにも見える教師視点のシーンと合わさって、二人が亡くなったようにも受け取れる。
このラストもまた私達の感情移入を阻む。純粋なハッピーエンドとしてユートピアを描いてくれたなら、それでも彼らは幸せだったのだと観客自身の生きづらさも投影して涙することができたろう。バットエンドとして彼らの死を描いてくれたなら、もう意志も感情も示さない彼らに変わって私たちがこの不条理に対して苦しみ、悲しみ、怒ることができた。けれどそれらは叶わず、私たち観客は明るくなった映画館で泣くことも憤ることもできずただ呆然とするしかない。
そして、激情に支配されることなく私たちは考える。
少年たちを追い詰めたものは、もしかしたら私たち自身が、ぽろっと漏らした古い家族観かもしれないし、くすっと笑ってしまったテレビに流れる偏見や差別かもしれない。彼らが発していたSOSを見落とし続け、自己保身のために詰め寄っていたのは私かもしれない。
少年たちを救うために必要だったのは、誰かを怪物として叩くことではなく、誰もが怪物になってしまう社会の仕組みを変えること、例えば学校の保守的な体制改革や学校と家庭以外の子どもたちの第三の居場所作り、ひとり親家庭への支援、ジェンダーやセクシュアリティに関する知識教育だったのではないか。
こんなふうに感情に支配されずに、社会課題について冷静に考えることのできる時間は、現代社会には実はほとんど存在しない。確かにSNS上には日々数えきれないほどショッキングな情報があふれかえり、私たちは被害者に自分のしんどさを重ね合わせて共感して涙したり、犯人を探して自分の日々の鬱憤も一緒に乗せて石を投げたりしている。しかしそうして消費して自分たちがすっきりしたその後には、もうその問題そのものは忘れてしまっている。何一つ問題自体は解決などしていなくとも。
そんな現代において、己が被害者ではなく、加害者であるかもしれない可能性について考えたり、犯人探しではなく問題そのものを解決する方法を冷静に考えたりする姿勢を映画を通じて提示したことは、紛れもない本作の達成といえるだろう。
これまでの作品の中で、弱者たちの苦しさや死、生きづらさを描き、レトリック一つで肯定してきた坂元なら、湊と依里の生についてもいくらでも黒を白にひっくり返すように肯定することができただろう。でも坂元はそれをせず、二人に起きたことを黒でも白でもなく淡々と描いた。それによって示されたのは、言葉などでは二人を襲う不条理は肯定しきれないし、肯定してはならないのだという姿勢だ。脚本家としての最大の武器とも言える言葉の限界に向き合い、それをあくまで道具として使いながら、今作は現代におけるその場限りの共感や激情ではない新たな不条理との向き合い方の可能性を拓いたといえるだろう。
撤回しよう。『怪物』は坂元裕二作品史上最高傑作だと思う。
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