だから、私はボランティアをやめた
「知っていると思うけど、〇〇の会は今年の3月を持ってなくなります。それに伴って飲み会やります!」
仕事終わりの帰り道、スマホを開くとそんなメッセージが流れてきた。大学4年間の多くの時間を費やし、2年のときには幹事長もやらせてもらったサークルがなくなる驚きとともに、私は最後の飲み会への不参加ボタンを押した。そのときに私はこの文章を書こうと思い立った。これは、私がこのサークルでもらった何にも代えがたい時間たちと、そして何もできなかった己の無力さについてのエッセイだ。
そのボランティアサークルと出会った時、私はお嬢様学校と呼ばれるような中高一貫の女子校から出たばかりで、自分が社会について何も知らないという現実に至極焦っており、「ボランティア」という形で、震災、障害者、子ども、LGBTQ、環境問題、など様々なコミュニティに出入りしていたのだが、参加し続けるうちにその排他的な雰囲気に息苦しさも感じていた。例えば、活動に関する議論の中で「大学まで行けたあなたにはわからない」と議論そのものを拒絶されてしまうこと。活動に対する貢献度によってある種の評価が生じるために、活動の方針に疑いを持たないことや、学生生活の時間をボランティアにほとんどかけることのできる余裕があることが、活動に継続的に参加するための実質上の条件になってしまっていること。
当たり前だが、ボランティアでは現在進行形で痛みを抱える当事者を目の前にすることも多い。そうした痛みは、「わかる」と私たち非当事者がかんたんには共感できないくらい切実なもので、当事者たちの思いは彼らを助けようと、社会を変えようとしているボランティアたちにとって絶対的なものだ。だからその正しさに非当事者たちは黙らざるを得なくなり、彼らの声を疑うこと、生半可な気持ちで関わることは断罪されやすい。一方で、問題とゼロ距離で接し、今ここで生きることがすべてである当事者の視点は、場合によっては他の当事者を排除していたり、未来に問題を先送りしているだけのこともある。だから長期を見据え、多様な距離感、立場から意見を交えて議論する場が「あなたたち(非当事者)にはわからない」という一言で潰えてしまうそのことにもどかしさを感じていた。
私は、上記のボランティアサークルには、そんな私自身のモヤモヤに対する一つの答えがあるのではないかと感じていた。サークルの活動目的はたった一つ、「障害のある人と交流をすること」だけ。部室で一緒に遊び、帰り道を一緒に帰ること、日曜日の夜に一緒に夕飯を食べること、ファミマで買った焼き鳥を一緒に食べること、発話ができない方と指を使って他愛もないおしゃべりをすること。社会を変えるでも当事者を救うでもないそのあり方に私は強烈に惹かれていた。ある利用者さんの家族に言われたことがある。
「障害者は、家族や福祉関係者しか周りにいない状態で育ってるから、あなたたちが当たり前にやってきた学校帰りにコンビニに寄ってみんなでアイスを食べるその経験がうちの子にはないの。だからあの子の友だちとして接してあげてね」
そんなサークルで部員たちの利用者への接し方、考え方は本当に多様だった。中には利用者やその家族へのニーズに忠実であろうとする人がいれば、一緒に楽しもうとレクを提案する人がいて、カメラが得意だったらそれを活かし、他のサークルで忙しければたまにくればいいのだ。だが、障害と本来は関わるはずのなかった私たちは”ふまじめ”に当事者たちと出会うことで、変化をしていく。発話ができない彼らにも思いがあること、言葉を発することのできない彼女から求められる握手はどんな言葉より人を惹き込む力があること、決して恵まれてるとは言えない環境の中にいる彼らの満面の笑み。そんな彼ら彼女らに出会うなかで、私たちの怖い、可愛そう、”生きていてもしょうがない”といった「障害者」のイメージに、庇護対象でも攻撃対象でもない一人ひとりの顔が浮かぶようになる。そして同時に、障害のある当事者たちは、開かれたサークルを通して家族でも医師でも支援者でもない多くの学生と出会う。一方で障害を抱え、“友人と帰り道にアイスを食べる経験“をしてこなかった彼らは、学生たちとの関係性から初対面の学生と一から関係性を作っていく難しさを知ったり、継続的に関係を築くために人間関係上守らなければいけないルールを意識しなければいけなかったり、自分の気持ちとは関係なく様々な事情で会えなくなることを経験する。それは彼ら自身が、家族にとっての「我が子」や支援者にとっての「顧客」としてニーズを誰かが汲み取ってくれたこれまでの無菌室から出て、伝わらなさ、思い通りにいかなさを自分で引き受けながら世界を広げることに繋がるのではないかと信じていた。だからこそ、私はこのサークルが好きだったし、サークル活動を通して一人でも多くの学生が当事者と出会う場を、当事者が一人でも多くの学生と出会える場を、作ることに一生懸命になっていた。
そんな中、コロナウイルス感染症の流行に伴って私たちは他の多くのサークルと同様に活動の休止を余儀なくされる。実際に会って交流することが活動のすべてだったうちの会は、新歓活動もできず活動の危機になっていた。サークルのメンバーや当事者たちの意見もさまざまで、ただの遊びで「不要不急」の活動なのだからリスクを犯して活動するべきではないというものから、この活動は「不要不急」などではなく障害者の方にとってなくてはならない「必要」なものだからコロナ禍であろうと活動するべきだ、というものまであった。そして最終的には、ボランティア先からのこの活動は「必要不可欠」という声に従う形で、よく出入りしていた部員数人での活動だけを再開させていった。気づけば私たちの活動は「必要なもの」として、ボランティア先と信頼関係のある学生のみが活動する閉鎖的なものになっていったのだ。それはもちろんコロナがきっかけではあったが、思えば当初から片鱗はあった。サークル活動に積極的に参加するようになって、いくつかのボランティア先では私たちを「娘」「家族」と呼ぶようになっていた。聞いた当初はそんな風に呼んでもらえたことが嬉しかったが、今思うと承認を代償として私たちの活動を搾取するための魔法の言葉だったとも思う。ボランティア先にとってたまにしか来ない学生は重要でなく、承認されるために彼女のニーズに応える学生のみが「娘」となる。そこにあったのは私が違和感を抱いていたはずの、承認を目的とした閉鎖的な利用者とその御用聞きとしての支援者という一方的な関係性だった。私がこのサークルに惹かれたのは、「不要不急」だからやらなくていいものでも、「必要」だからやらなくてはいけないものでもなく、「不要不急」が故にやらなくてはいけないものだと感じていたからだ。けれど当時の私はこの違和感を言語化できないまま、進むこともやめることもできず、その場で止まってうずくまり何もしなかった。そのまま卒業し、何もしなかった罪悪感だけ背負ったつもりになって忘れかけていた私が、サークルが無くなることを知ったのが冒頭の場面である。
もう私はボランティアはしていない。
だが今、私は就労支援施設に勤めていて、障害のある人の就職活動のサポートをしている。この仕事は「家族」でも「福祉施設」でも「友人」でもなく、「仕事」を通して当事者と非当事者が関わる機会を作れる仕事なのではないかと思っているのだ。「仕事」というお金を介した関係性は実は、お金を介するが故に本来は関わることのなかった他者と強制的に関わらざるを得なくなる仕組みになっている。健常者は障害者を含む組織のなかで仕事を遂行するために障害者のことを知る一定の強制力が老若男女、障害への偏見や理解度を問わず発生する一方で、障害者もお金を得るために家族でも支援者でもない多様な他者とコミュニケーションをとらなければならない。時には社会の側の差別や偏見と出会ったり、当事者の側の生きづらさとどう対峙したらいいかわからなくなることもあるが、それでもこの仕事を続ける原点は間違いなくサークルでの経験だ。未だに多くの理不尽があって、多くの人が痛みを抱えている。でもそんな痛みがまったくない社会を作ることも、お互いの思いを完璧に分かり合うこともできない、というかそんな世界つまらないと思っている。互いにわかりあえなさを抱えながら、その痛みを面白がれるそんな社会。
ボランティアを経て、見つけたその一つの可能性を胸に今日も私は仕事に向かう。
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