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『蝉廻り』‐002


電車を各駅で 6つやり過ごして降り、駅を出て右の角を曲がると道を挟んだ左手に正門が見えてくる。目を凝らすと煉瓦のあちらこちらが欠けていて、その歴史を思わせる建物に僕の研究室がある。エレベーターは狭い3人乗りほどのもので、一階一階上り下りする度にベルが チンと鳴る。大物なのか お淑やかなのか、そのエレベータは時間をかけすぎて動くので、ゆとりがない僕は階段を使いざるを得ない。”おはようございます” 重みのあるドアノブに手をかけ、回しながら引く。。。いや、引けない。。。大学院の研究室にはまだ誰もいなかった。右ポケットの中に手を突っ込み鍵を探すが、昨日売店でもらったレシートが出てきただけだった 。鞄を持ち替え左ポケットに手を突っ込むと、チャランと音を立て鍵が出てきた。誰もいない朝の研究室に入ると、開けっ放しの窓にかかるカーテンが雨の重みで流れ込む風に少し遅れて揺れていた。僕は鞄を机の上にゆっくりと置き、コーヒーメーカーに目をやった。昨日淹れたものがまだ残っている。先週、神戸での学会に行ってきた教授からの土産の珈琲…たしか研究所の仲間の女が昨日淹れていた。どう考えても豆の入れすぎだろうと思える苦みとその色は、 珈琲の深みというよりも 深く突き落とされた珈琲と言った方が当たっている。はぁーっと ため息を漏らしてしまいそうになるのを堪えながら、深みに溺れたそのコーヒーを排水溝へと流し込む。”無駄にされちゃったな…” ぽつんと口から出てしまった。哀れな珈琲だ。”あー ーー!!もったいなーい!!” 後ろから放たれた甲高い声に驚き、ぴちゃっと流しかけの珈琲がシャツにかかった。恨めしそうな顔になった自分に気づきながら、ゆっくりと振り返ると、派手な花柄のズボンにフリルのついた黄色いTシャツを体にピッタリ沿わせるあ奴が仁王立ちで立っていた。こいつが”殺人。。。殺珈琲鬼” だ。”あーあ、昨日のまだ残っているから、あっためなおそうと思ってたのにー。” ぷーっと頬を膨らませたその顔は「可愛い」とは程遠く、クルミを与えられた冬眠前の山リスだ。そんな事より昨日の珈琲温め直すって…新しいの作れよ!!と心の中で思う。いや、また無駄が出る。僕が作ろう。”あっ、おはよう篠崎さん。” とってつけたように僕は言い放つ。”これ昨日のだったし、僕が新しいの淹れなおすよ”。良かったな土産の珈琲…これでお前は生かされ、排水溝に流される事なく皆の喉の奥まで達するだろうよ。僕の珈琲への思いをよそに、後ろで篠崎はぶつぶつとまだ文句を言っている。シャツについた珈琲がジワリと染みて行く様に、篠崎のぼやきも朝の空気に混ざり溶けて行った。しかし、ぽつりぽつりと仲間が顔を出してくる…”おはようございます” ”おはよう ”。その度に聞こえてくる ”ちょっと聞いてくださいよぉ~”。。。僕が昨日のコーヒーを捨てた事を告げ口する甲高い声。その話を聞いて皆の反応は、少しホッとしている様だった。誰だって一日前の珈琲なんぞ飲みたかねーよ。皆がちらっと僕の方を見て苦笑いする。それを見て、自分の感覚は間違っていないと確信が持てる事に僅かな優越感を抱いていた。そんなこんなで始まった僕の一日は、何の変哲もない 幾つも重ねてきた毎日の一頁であった。

 

 

天気予報士になりたかったわけでも、気象庁で働きたかった訳でもない。

ただただ雲の流れを眺めている事が好きだった。これが僕の今の居場所にあり着いた理由だ 。理工学部地球環境学科気象学研究室…大学を卒業し、先の事を考えるのが面倒くさくなって、とりあえず大学院へ行き学生を続けることにしたのだ。未だに自分の”これから”は見い出せていない。こればかりは流石の僕もため息を漏らす。あの篠崎でさえ、卒業後の事は考えているらしい。まぁ彼女の場合は玉の輿という不純な物が最終目標なのらしいのだが、それでさえも自分より前を歩かれている感じがしてならない。同期の前田は半年前に長年魅了されていた竜巻の研究を追求する為アメリカに渡り、ストームチェイサー調査団として走り回っている。少し前に前田からアメリカに来ないかと誘いが来たが、自分の身を危険に晒してまで雲を追っかけるなんて気力は僕にはサラサラない。ただ、ぼーっと雲が流れるのを見上げていたい。子供の頃、近くを流れる川の土手沿いに寝っ転がって、ぼけっと流れる雲をみて時間を潰していた。僕の体重に押された草が時間をかけてまた立ち上がろうとする様や、土手上を自転車が通過する時に転がってくる砂利が跳ねる様…そして雲と自分。それ以上もそれ以下もなかった。そんな僕はどこを目指せばよいのだろうか。未だに答えを探している。

 

昨夜の雨雲レーダーを見つめながら、僕の頭上を通過したはずであろう雨雲を追ってみる。画面上に写るそれは、ゆっくりと動いているように見えるが、それでも10分間隔の画像を早送りで再生している。紺と青と水色の四角いピクセルが少しづつ動いていく…これが雨雲。小さなピクセル達は雨量をそれぞれ表しているが、角ばった感じが何とも雲らしくなく、昨夜の闇すべてをデータ化されたような気になってしまう。徐々に色を水色に変えながら それは右上方向へと進んでいく。僕の家がある辺りから小さな雨雲ブロックが移り去った時刻 今朝の5時20分頃。僕は一度眠りにつくと、地震があっても起きない程に眠りが深い。昨夜 僕の家の真上に居座っていたこの雨雲から降り落ちてきた激しい雨でさえも、僕を眠りから覚ます事は出来なかった。雨雲は ゆっくりとその規模を小さくして行きながら、太平洋へ抜けた辺りで 何処へともなく消滅した。残ったのは それがこぼして行った水溜り。その水溜りでさえも蒸発し、いつか大気中に消滅していく。 そこにその時居た証拠を跡形も残さずに…僕たちの記憶にでさえ残るのは、「とある一夜の雨」というだけだ。”とある日”… が、 記憶に深い足跡を残すような ”あの日” になる朝が いつか僕にも訪れるのだろうか。その時の空が、虹を織りなす彩雲を纏っていてくれないかと、微かな願いを抱いてはいた。

 

 

   

 

   

 

あらゆるコンピュータ器具に周りを固められ、統計を取り…”俺何やってんだろう…” そう思いながら、プリンターからひっきりなしに出てくるデータを丁寧に点線に沿って折り積み上げてゆく 。僕はこの作業が結構好きだ。同じことを繰り返す。繰り返し繰り返し丁寧に。すべての点線を確実に折れたときの達成感は、氷河期のエベレストの頂上に立ったかような半端なさである。 これはコンピュータと僕の戦いとも言うべきだ。少しでも折を外した時点で敗北が待っている 。高いビルの間を命綱なしで渡る曲芸のような緊張感と集中力。しかしながら緊張感を高めすぎてはかえって手元が狂ってしまう。極限の緊張の元、どれだけ心を無にして確実性のみを引き出せるかが勝敗を決める。少しの狂いで敗北が決まってしまうのだ。


蝉…蝉か。。

僕の指であいつの人生は大きく変わった。あの蝉は一本の指という小さな救いで将来を勝ち取 ったのだ。ふと頭に今朝の蝉が浮かぶと…”あ゛っ!!!” 数ミリ程点線からずれて折られた箇所、ざっと4cm程。今日の僕の戦いは黒星に終わってしまった。


あの蒼白い蝉の羽根は今頃 その色を変えたであろうか。

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