『蝉廻り』‐004
それはそこにしがみ付いていた。
蒼青しい翠色の一点から出る六本のしなやかな放射線。濁乳色がかかった水平線の波は、そ の後ろを覆いつくす網雲模様によく映える。昨夜の雨の雫がスクリーン一面に散らばり飾られ、切れ雲から顔を出す日の光を照り返すとキラキラと光りだす。それはまるで、美しく紡がれた蜘蛛の巣に身を捕らわれた獲物の様にそこにいた。しかしながら、それの波雲模様を纏った羽根は太く縁どられ 素直なまでに真っすぐに伸び、その容姿は凛としている。そこに捕らわれているのではない…何故かそう思えてならなかった。どれくらいの間ここにこうしているのだろうか。まるで自ら時間を止めたかのように、ピクリとも動かない。
それは、ただそこでしがみ付き、時が経つのをじっと待っていた。
私には ”それ”の時間を操る事が出来る。
時計を進める事も 止めたままでいる事も出来る。それの待つ「時」が私の手で簡単に変えられる。小さなそれの決意と時は、私の選択一つで潰されも尊重されもする。自分の”時”は ?…それでされ分からない。
見えない靄がかかる空気が吹き込む 夏の終わり。
眠りから覚めるたびに冷たい感覚を目で感じ、いつも同じ匂いのする空気を吸い込み息をする 。すべてが白塗りの世界の中に住む自分にとって、窓というスクリーンで映し出される風景が唯一の季節感を味わえる一角。
私は蝉を見つけた。
深い翠色に漆茶の斑点が浮かぶ羽根。白みを帯びた鮮やかな緑色をまだ残した腹部。 まだ若い蝉だろう。小さな網戸目にその細く伸びた足の先を、まるで指関節のように巧みに引っ掛け しかと張り付いている。鳴くのでもなければ、登ろうともせず、ただじっとその場に留まっている。窓から見える雲が夏の終わりを告げる空を恨めしそうに撫でていた。昨夜の雨を含んだ空気がそっと蝉に吹きかけるけれど、蝉の羽根は意思があるかのように頑なに、吹き付ける風に揺るぐ事なく真っすぐと伸びている。子供の頃 よく網戸にへばりつく蝉の足を突っついた。バタバタと飛び去ってゆく蝉を網戸の中から触るのが当時の私の精いっぱいだった。この蝉は昨晩の雨を逃れここにいるのか、これから飛び立つ時を見計らっているのか、どちらにしても私の唯一の季節の流れ画に 飛び込んで来てくれた可愛いお客様である。”居たいだけいていいよ。” そう言葉にすると、少し照れ臭く くすぐったい感じがした。もう夏も終わるというのに、この蝉は時期を間違って外に飛び出てしまったのか… 澄ましても聞こえてこない仲間の声は この蝉にとってどういうことを意味するのだろう。この地上にいる間に仲間に出会うことも出来ず、一人寂しくその生涯を終えてしまうのかもしれない。一緒に笑って、一緒に飛び回って、恋をして…。そう夢見て羽根を伸ばしたのだろうに、雨上がりの空気は、その夢全てを押し潰す程に重く感じられる。”可哀そうに” そう思った。それはこの病室に入れられた自分に向けて放った言葉かもしれなかった。この蝉は自分みたいだ。季節は移り変わり、周りはどんどん先に進んで行く…網戸という蜘蛛の巣に捕らわれた蝉。