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『蝉廻り』‐009


まだお日様が顔を出す前のこの時間に、私は洗面台の前に立っていた。少し右側にうねった髪が、私の寝相を物語る。こんな風に毎朝自分をのぞき込める鏡が病室にあること…ある意味この病院内で私は幸せだったのだと今更になって気づく。大学の教授を務める父が計らってくれた この個人部屋には専用シャワーもついている。”おはよーございます…。”鏡の中の自分に言って みる。寝起きの不細工な自分に吹き出しそうになったが、心は弾んでいた。

 

父は毎日 面会時間外にこっそりと私の病室まで足を運んでくれる。昨夜は遅くまで仕事だったのか、消灯後少し経ってからこっそり来てくれていた。母を中学時代に亡くした私を男手一つで不器用ながらに育ててくれた父。細身の体にまぁるい眼鏡が少しばかり大きく感じられる。ゆっくりと穏やかな口調はいつ耳にしても心地よく響く。白髪交じりの髭が、ここからあそこから覗くお茶目なおじさんだ。母が亡くなってからもなお、母を一途に愛し続けている真っすぐな父は決して大柄ではないがとても大きく広い…私はそんな父が大好きだ。丸眼鏡からはみ出んばかりの目元の笑い皺を 私はもっともっと増やしてあげたいと願っていたりする 。昨夜 ふぅーっと息を吐きながら一息ついて 父は私を真っすぐ見つめて言った。
”和風…家に戻ってくるか?” その表情は どこか観念したかのような笑みだった。嬉しさも照れくささも 両方感じられるような、でも、それを望んでいるような…。”えっ?” 唐突すぎて何を言われているのか理解するのに多少時間がかかったが、私の答えは一つしかなかった。


父は何事も隠さずに私に話してくれる。一日のありとあらゆる出来事から、”母さんが恋しいな。 ”という呟きまで、全て聞かせてくれる…一つ以外は、全て…。父は大きい。辛いとか恋しいとか 寂しさややるせなさ…そういうもの全てを曝け出せる。けれど決して一度たりとも「不安」を見せたことはない。いつも目に皺を手繰り寄せながら微笑む。”大丈夫” であったり ”そうか ”であったり、たまには何も言葉を添えずにただただ微笑んでいる。父の中に不安という感情がないとは思っていない。ただ、父は頑なに「不安」が存在しないかのように毎日を過ごしている 。この年になって分かってきた。父が不安から守ろうとしているものが私だということ。そして、私は父のその強さに今までも、これからも守られ続けていくこと。父は広い。父からは読み取れなかったけれど、私には何となく感じ取られた今回の帰宅に隠れる「不安」。私は目をつむって通り過ぎる事に決めた…父の守り通そうとするものに守られている娘として 、前を向いて顔を上げて素直に笑って喜ぶと決めたのだ。

 

それでも父は私に隠すことなく今回の退院に至る過程を教えてくれた。今回の入院のきっかけとなった発作を含め、この入院期間で発作は3回。予測不可能な状態でそれは起こる。きちんとした発作の原因はつかめていない…何がきっかけで起きるのか、いつ起こるのか。ただ分かっていることは、発作の起こる間隔が徐々に短くなってきている事。そして、私の心臓が発作についていけなくなってきている事。簡単に言えば、元から弱かった私の心臓が限界にきているのだ。”病院にいれば発作が起きたときにすぐに処置ができるが 、裏を返せば 病院にいても発作は避けて通れないということだ。” 父はゆっくりと言った。”いつ起こるか分からないものをただただ病室で待っているよりも、いつ巡り合うか分からないものを探しに行くほうが素敵だと思ってね。” 父は笑って言った。”待つのではなく、探しなさい。” 大好きな父は笑って私にそう言った。

 

 

あんなにも待ち焦がれていた退院がいきなり訪れて、鏡の中の自分がにやけている事に気づかないくらいにワクワクが止まらなかった。昨夜ゆめさんからもらったボディーソープを手にシャワーの湯を出した。今までと変わらず、父とお医者様からの約束は長いリストとして綴られている。無茶はしない事、遠出はしない事、階段は避ける事、携帯は必ず持ち歩くこと…長々と続く約束だが、一番大切なものは、父の電話には必ず出る事。何があっても何をしていても必ず電話に出る事。今日私はこの窓から見える下の交差点を歩くんだ。ふと昨日の蝉を思い出した。” 私も飛ぶよ。”


可愛らしい香りに包まれて、改めて鏡の前に立つ。久しぶりの普段着姿は少し恥ずかしい。 少しやせたのか、スカートが腰骨辺りまで落ちている。入院中にさらに伸びた髪は胸の下あたりまでに達していた。お母さんとおそろいの真っすぐな黒髪…少しそろえてみようかな。外出もままならなかったこの数か月、日の光を浴びていなかった肌は健康色に欠けている。”昔から…か…。”人は色白で綺麗だと言ってくれるが、自分ではそうは思えなかった。今日は綺麗だと自分で思えるような一日にしたいな。久しぶりに引き出しの奥にしまいっぱなしだった化粧ポーチに手を伸ばす。とはいえ、ポーチには最低限のものしか入っていない。二つあるリップクリー ム。ほんのりと色の出るリップを手に取りキャップを外すと、新品同然のようにくるっと顔を出した。唇を突き出す鏡の中の自分が妙に照れくさい。私の肌に色が咲いた。鏡を真っすぐに見つめ ”よし!”と小さく気合を入れる。胸がちょっぴりチクッとする…”はいはい、無茶はしませんよ。” 浮かれた心を制御できずにいる自分にちょこっと舌を見せてくるっと鏡に背を向けた 。

 

退院の手続きはすでに父が昨夜のうちにしておいてくれたらしい。仕事で遅くなったかと思っ ていたけれど、昨日の面会が遅かったのは手続きのためだった。退院の話は先生と父の間では何度か話し合われたものだったようだ。昨日まであんなにも外が恨めしかったのに、あまりにも簡単にこの部屋を後にすることが出来るなんて。”うーん、いい香り” 声に反応して後ろを見ると、ゆめさんが嬉しそうに笑って立っていた。少し考えて ”あっ!!”っと気づいた。”ゆめさん、 昨日の時点で退院のこと知っていたんでしょう!” ふふふと笑って、ばれちゃったかと言いたげな笑顔を見せる。”昨日小耳に挟んじゃったんだよね。” ”良い予感ってなんだか意味深だった んだもの!”私まで含み笑いをしてしまった。”何だかわかちゃんがいなくなるのは寂しいけれど 、正直嬉しいわ。今度は一緒にお買い物できるかしら?” ”私も行きたいわ、ゆめさんと!” お互い見つめあいながら何秒たったのか。”でも、昨日が夜勤で本当によかったわ。”そういって ゆめさんは両腕を思い切り上に伸ばしながら体を大きく横に振った。”わかちゃんがいないのは寂しいけど、ここに帰ってきたら許さないからね!” ちょっと涙ぐんだゆめさんは父ほど不安を隠すのが上手ではないけれど、それでも最高の笑顔でそう言ってくれた。下唇をかみながら私は小さく頷いた。




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