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『蝉廻り』‐016


やはり教授は先を読んでいた…ホッとして、どさっと背もたれに寄りかかった。画像にはロープウェイが映し出されていた。”そういうことか…” 喉の奥に引っかかっていた魚の骨がすっと胃袋に落ちた感じだ。何だって僕はあんなにも無意味な心配をしていたのだろうか。子供の事を一番に思わない親が居るはずがない。ましてや周りをそっと気遣う教授だ。少しでも違和感を感じてしまった自分が恥ずかしくなった。そう言えばここ一か月、ろくにカナダの両親にきちんとした連絡も入れていないな…無造作に置かれた携帯電話を手に取り、「元気ですか?」と父さんにメッセージを送った。




仲間が来るまでの間、僕は筑波山について色々調べてみる事にした。

「西の富士、東の筑波」と、富士山と並び称される茨城の名峰・筑波山。そのくらいは僕だって知っていたが、それ以上の情報は全く持ってなかった。日本百名山の中で標高が最も低く、比較的気軽に登ることができるため、年間を通して多くの登山客が訪れるそうだが、実際「登山」と聞き「筑波山」を候補に挙げる事はない。が、登山ルートを探ってみると難易度の違うコースが幾つかあり誰にでもその山頂を満喫できる「人を招き入れる山」である事が分かった。春にはカタクリの花に、つつじが満開に咲く5月。紫陽花だって鎌倉に負けていない程に雨季を飾る。へぇー…画面をのぞき込んでいると、右肩からヤマビコのように ”へぇー”と声が返ってきた。驚いた拍子に両肩が跳ねあがってしまった。”筑波山に行くのかぁ~” 慌てて後ろを振り返ると、三井が顎をさすりながら腰を曲げ、驚く僕に構わずじっと画面をのぞき込んでいた。”み…三井。。。お前、篠崎さんみたいなことするなよぉ~” そんな僕にはお構いなしで、グッと手を伸ばし綺麗な花々の画面をカチッっと切り替えた。ロープウェイの真っ赤な車体が写ると ”あっ…”と安堵が漏れた気がした。”良かった…やっぱりそうか” あぁ…三井も僕と同じことを考えていたのだろうか。小柄で少し頼りなさそうないつもの三井の横顔が、少しだけ凛々しく見えた。”ロープウェイもあって、和風さんも山頂まで行けそうだ” 異様な同士感からか 彼女の名前が僕の口からでると、三井はやっと僕の存在に気づいたかのようにこっちを向いて、はい!とだけ短く答えて笑った。


二人で何処をどのように登るのか、教授の頭の中を探るように話していると ”おはよー!ねぇ、昨日思ったんだけど…今週末の行き先ってどこなんだろね?”篠崎もまた、考えていたことは同じだったのかもしれない。篠崎のそんな朝一の言葉を聞いた僕らは、顔を見合わせてにかっと笑い、「筑波山」である事を篠崎に伝えた。




帰りの電車に揺られていると、携帯が小さく揺れる。ポケットからそれを取り出すと、父さんからの返信だった。たった一言送ったメッセージが、何十倍もの言葉になって返ってきていた。

「誠司。父さんも母さんも元気にやってるよ。お前達はちゃんと飯食ってるか?最近忙しさに追われて連絡もせんで本当にすまんな。健司をお前に任せているから安心しきってたのかもしれん。こちらはめっきり寒くなって、母さんがお前たちの事も心配していてな。ちゃんとコートを着るようにと言っているぞ。健司はいつも半そで短パンでいたからな…いくらガタイが良くなったからって、体調を壊されてはこっちも心配で気を病んでしまうから、親の為にも暖かくして外出するようにと伝えてくれ。お前も研究が一段落したら、一度こちらに来るといい…たまには長期休暇取って親に顔でも見せに来いな。それでは父さんも仕事に行ってくる。お前たちはゆっくり身体を休めるんだぞ。」

父さん…電車から沈む夕日にひっそりと ”行ってらっしゃい”を贈った。



 

 風呂上がりの牛乳片手に、居間でパソコンを開けると 成瀬教授からメールが届いていた。宛先には三井と篠崎も含まれている。「週末登山」と名付けられたメールを開けると、大まかな予定と共に教授からの言葉が添えられていた。


ー 土曜午前八時半 大学正門前集合。行き先は茨城県にある「筑波山」。
ー 午前十時ごろ到着予定。そこから女体山を目指す。
ー 山頂にある「御幸ヶ原(みゆきがはら)」にて昼食。
ー 下山。
ー 「旧小栗亭」にて一泊。
ー 日曜午後 帰路に着く。

{行き先も予定も告げずに申し訳ない。急な誘いに付き合ってくれる君達に、少しばかりの感謝の気持ちを込めて今週末は全て私持ちとさせてもらいたい。当日はもう一人、私の古くからの友人の柏先生も同行し、車を出してくれる予定だ。予定は見ての通り大まかなものとなっているが、和風の体調を見てその都度ルートや予定を決めさせてもらっても良いだろうか?無計画なのは十分承知だ。どうか私の身勝手さに目を瞑ってもらえると有難い。

どうぞ宜しく頼みます。ー 成瀬。}





待て…いや、まて誠司。一泊だと!「登山」が一挙に山を飛び越えた気がした。今までも、研究所の仲間と共に旅行へ行ったり 休日を過ごしたりすることはあったが、今回はいつもと違い個人的なものだ。ましてや、出会ったばかりの和風さんと同じ屋根の下に泊まる。ゴン!!思わず立ち上がった時に膝を思い切りテーブルにぶつけてしまった。僕の動揺は見事にテーブルの上に牛乳で真っ白く描かれ、僕のスウェットにまで広がった。そしてその夜、僕の「登山リスト」に宿泊準備が 歪んだ文字で書き出された。








物音がしない部屋で一人そっと洋服箪笥を引き出すと、夏物の服が未だ出番を待ち浴びてるかの様に綺麗な姿で並んでいた。心の中で洋服たちに ごめんねと呟いて、手も付けずにそっと棚を押し戻した。左側にある戸を開けると、ビニールに被さったままの洋服が掛けてある。クリーニングに出したままの状態でかかる洋服を一つ一つ手に取って、今の季節にぴったりなもののカバーをそっと外してゆく。週末に何を着てゆこうか…。鏡の前で洋服をひらひらとかざしながら これでもないあれでもないと、気づけばベッドの上に何着もの洋服が投げ出されてた。それは自分が女である事を気づかされる光景で、同時になんだか照れるような恥ずかしさが沸き上がった。”みんなで出掛けるんだし…” 鏡に映る自分にそう言うと、ふと白沢さんの横顔がふっと浮かぶ。鏡の中の自分が少し紅く染まってゆくのを直視できずに、目線を散らばった洋服にとっさに戻した。落ち着かない心をなだめるかのように再度ラックへと目を向けると…奥からちらりと覗く青い袖。”これ…は、どうかな。” 襟が付いたカジュアルな長袖ワンピースは昨年ふと立ち寄ったお店で気に入って買ったばかり。ビニールに包まれることなく、未だタグがついたままそこに掛けられていた。着ているシャツをすっと掴む。天井高く腕をあげて背伸びをすると、するりとシャツが頭を抜ける。追ってさらっと落ちてきた髪が私の背中をくすぐった。腕を回すと髪先が指をかすめる。”髪も揃えようかな…”そのまましばらく自分の両手を背に回し、髪を撫でながら天井を仰いだ。




ブルーのワンピースで身を包み、父が帰宅するのをソファーで本を読みながら待っていた。病院で読み始めたこの本は、あと残り数十ページとなっている。ガチャリと鍵が回される音を耳にし、ゆっくりと起き上がって玄関先まで音を立てない様に忍び足で廊下を歩いていく。新しい洋服を纏った自分が少し照れ臭くて唇をそっと噛み締めた。自分の手の置きどころが分からずに 前で組んだり後ろで組んだり…玄関がそっと開き始めると、とっさに両手が後ろに回った。”お、かえりお父さん” 私を目にした父が ”ただいま”と微笑むのを見て、”どうかな…週末にこれ…”ゆっくりと視線を洋服に落とした後にもう一度父を見上げると、父はきょとんとした顔で私を見ていた。”え?変…かな?” そう言っても父は真っすぐ私を見ているままだった。あっ…っと思いついたように声を出すと、父はクスクスと笑い出す。訳も分からず、笑い出した父に私はオロオロとするだけだった。父の笑いはだんだんと大きくなり、最後には大口を開けて笑っていた。お父さんの…この笑顔。父の隣に今はっきりと母の存在を見た。

今にも涙が出てきそうなそんな父の笑顔の隣で、母の笑う姿がはっきりと浮かぶ。母がまだ生きている頃、父はこうして思いっきりお腹の底からよく笑っていた…母と共に。年を重ね、母が隣にいない父は、いつも穏やかに優しく笑う。そんな父の笑顔にはいつも優しさと心地よさを感じている。でも私は、心の底から大笑いする父と母を見ているのが大好きだった。見ているだけで私までもがおかしくて笑ってしまうような二人の笑顔。二人でないと見れなかった父のこの笑顔…。

嬉しくて…涙がにじんだ。

”いや、ごめん。とても似合っているよ。父さんが悪かった…” 嬉し涙が父には悲しみにとれてしまったようだった。父の笑顔の理由を理解できぬまま、下ろしたてのワンピースがずどんと重く感じられる…でも心の中は、嬉しさで満タンだった。”参った。。。和風で二回目だ” 笑いをこらえきれぬままに、父は拳を口元に持って行きながら言った。”和風…今週末はな、登山だ” その言葉にはっとする ”と、、、ざん?” ワンピースが「洋服棚に戻ります」と潔く私にお辞儀をする姿が、沢山の感情が入り混じり立ち尽くす私の脳内に漫才のシーンの様に流れていた。



普段着に着替え、申し訳ない気持ちでワンピースをハンガーに掛け直す。リビングに出ると、少し不貞腐れた顔をしていたのか、私を見るや否やまた父がふっと笑う。”もうお父さん、先に言ってくれなきゃ…” ”すまない。今朝 白沢君にも同じように聞かれてね…自分でも可笑しくなってしまってね” 「白沢」という名前が出てきただけで、顔がぱっと明るくなるのを自分でも感じ、慌ててぷーっと頬を膨らました。しかも、同じことを父に聞いただなんて…耳が熱い。”でも…登山だなんて…私には無理だと思わない…?”父は優しく目じりを下げながら”大丈夫だ。安心して楽しみにしていなさい。母さんの…洋服棚に昔のハイキングパンツがまだあったはずだから、明日にでも探してみるといい。それと…土曜に経って…一泊予定だから、宿泊用意もするようにな。” 父らしくない。いつもは何でも前もって隅から隅まで丁寧に説明をする父なのに、今回は様々な事を忘れてしまったり、告げずにいたり…そして、あの笑顔。

父らしくないのではなかった…ずっと…母が亡くなってからずっと…仕舞われたありのままの父がそこに居た。それにしても…”えっ?一泊旅行??” …今日の父の行動は私の心臓に悪すぎだ。






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