『蝉廻り』‐029
”よし、ついたぞぉ!!” 宿泊先で車を降りると…”えっ?ここ…宿ですか?” 篠崎が言葉にしたが、多分皆そう思っていたに違いない。”どう見ても…誰かの家ですよね?” 三井もそう思ったよな。玄関には藍色の暖簾が下げられていて、真ん中に「巡人」と書かれていた。どう見ても民家だったが、確か「旧小倉亭」と言っていたはず…。”古民家を宿にしたのか…?” 僕の声に教授が そうだと答えた。この辺りには古民家が多く、そこを宿として経営している所が沢山あるらしかった。木門構えからして立派な家で、石畳が綺麗に敷き詰められているのに、苔や黒ずみがその歴史の長さを物語っている。表から見える二階の窓と玄関には格子が完璧な等間隔で並んでいて、映し出される影が綺麗に傾きをも揃え瓦屋根と石畳に落ちている。サワサワと暖簾が風に揺られると、家が僕達を招いているようにも見えた。
”素敵なお宿ね…”隣に立つ和風さんが木門をそっと触る。荷物を出し終えて宿に足を踏み入れると、綺麗な草緑色の畳が敷き詰められていた。広々とした空間の合間に太く大きな柱がしっかりと屋根を支えている…「縁の下の力持ち」その言葉通りの風格を持って土壌から「生えている」と言った方がピタリと来るくらいにどっしりと。戸を超えても足場は石畳で、縁側が家の中にあるように一段上がっており、そこはもう畳のお座敷になっている。囲炉裏があり、座布団が4枚取り囲むように置かれていていた。
”ここは、昔あるご夫婦が住んでいたんだが、ひ孫さん夫婦が受け継いでこうして新しく生まれ変わったそんな宿なんだ。”
大切に愛され続ける「家」…月日と共に変わりゆく物もあれば、変わらぬ物…そして生まれ変わる物もある。この宿はそのどれも合わせた暖かい空間だった。
”いらっしゃい” ニコニコと笑ったふくよかな女性が奥からやってきた。”お疲れでしょう?さっ、どうぞどうぞ。” なんだろうこの感覚…実家に帰ってきた様なそんな暖かさを感じる。靴を一斉に脱ぎだすと、”この解放感!!たまらない” 三井が靴を手に持ちながら、足を揉んでいる。”この辺りには実は温泉が沢山あってな。この宿にも小さいが天然温泉があるんだ。” ”やっ…やたぁ!”小さくガッツポーズを決めるそんな三井も少しは元気が出たみたいで見ていてホッとした。座敷に上がると男性がお盆に冷たい緑茶を乗せ持ってきてくれた。”いらっしゃい。宿主の小栗です。”一人一人に目を配り、人数分だけ何度も会釈をするご主人は、頬が少し赤らみ 目を柔らかくして笑っている。”お迎えしたのが妻の光江です。” 二人そろってニコニコして ささっ、どうぞとお茶を勧めてくれた。”いやぁー立派なお宿ですねー!!”柏先生が家中を見渡しながら言うと、”ありがとうございます。ここは妻の祖祖父母の家だったんです。明治・大正・昭和・平成…そして令和…ずっと私達を守ってきてくれた家でして。”ご主人が説明した。”私が小さい頃に ひいばあさんがどっしりとここに座って、囲炉裏で煙管を咥えていたんですよ” 囲炉裏に目を向けるとぽぉーっと温かみを感じた…と、奥のふすまから何やら髪の毛が生えていた。皆がお茶を手を取る中、僕は真っ黒な塊をじっと見ていた。するとひっこりと顔が半分飛び出して、僕と目が合うなりまた引っ込んだ。”座敷童…?”ポツっと口にした言葉におかみさんがふすまの奥に目をやると…”あははは!!座敷童の様なもんですよ。こらっ!康太!!あんたも隠れてないで、こっちに来てご挨拶しなさい!” するとびくっとふすまが揺れる。そろーっと出てきたのは小学生くらいの男の子だった。”息子の康太です。悪ガキですが…”アハハと笑いながらご主人が康太君を手招きする。”ほら!!ご挨拶は?!”どすの効いた声に渋々 ”いらっしゃい…”とぺこりと頭を下げる。恥ずかしいのか下を向いたままだ。顔をあげると僕を見て、またふいっと横を向く。なんだか小さい時の健司みたいだな…健司の場合 ただ単に始めは気取り屋で、少し慣れてくると思いっきり人懐っこくなるそんな子供だった。ふふっと笑うと、そんな僕を見てはまた、ぷいっとそっぽを向いた。
二階の部屋に案内され、部屋分けは誰もが予想していた通り 柏先生と教授、和風さんと篠崎、そして僕と三井。まぁ三井の機嫌も少し良くなったみたいだから気は楽だった。荷物を整理していると、篠崎がいきなり勢いつけてガタっと襖を開けて入ってきた。三井と僕がびっくりして飛び跳ねると
”外見て外!!!”と窓を指す。何事だと三井が障子戸をスッと引くと…”うわ!なんだこれ!!” 田んぼ畑が目の前にどこまでも広がっていて、窓際からは庭園とも呼べるような宿の裏庭が見えた。小さな池に石の架け橋、田んぼを見渡すように置かれた石のベンチ。”すごいよね!建物が一個もないの!!!” ビルや家が所狭しと立ち並ぶ光景に見慣れている僕達にとって 窓の外は隙間の世界でしかなかった。隙間から覗く青空、隙間から覗く星…ここでは窓いっぱいに「景色」が詰め込まれていた。”すごいですけど…ノックくらいしましょうよ…”ぼそっと三井が呟くと、少し膨れて ”この感動を早く分けたいって思ったんでしょ、ったく。。。でも、失礼しました!” くるっと向きを変えてすとんと襖を閉めながら篠崎が出て行った。でもすごいなぁ…見入っていると裏庭の池に康太君が枝をもってやってきた。しゃがみこんで何やらツンツンと池の中をつついている。一体何やってんだろう? じっと見ていると視線を感じたのか こちらに振り向いた。あっ、とっさに手をかざすと、じっと僕を見つめてまた池をつつき始めた。
座敷童って…聞こえてたのかな。
荷物も片付いたし、ちょっと宿検索をしてみることにした。篠崎さんはもう少し片付けが残っているみたいで、行き先だけを告げそっと部屋を出た。階段の手すりが年代を物語る。足を踏み出すたびにきしっと床が軋む音…小鳥の鳴き声の様でわざと足を強くふみつけたりもした。裏の玄関には6足のゴム草履がきちんと並べられていた。すっと足を入れるとひんやりと気持ちが良い。ガラガラと戸を開けると外にある七輪が振動でことっと鳴った。丁寧に手入れされたお庭には小さな楓の木や、大きな銀杏の木もある。庭の真ん中を少しずれた所にちょろちょろと水が流れる池があり小さな石の架け橋が掛けてある。その懸け橋に康太君が座り込んでいた。
そろっと近づいて後ろから見てみると、池の中には色形が様々な魚たちが泳いでいた。”何しているの?”そっと声を掛けたつもりだったのに、”うわぁー!!”康太君はびくっと飛び跳ねて尻もちをついてしまった。”び、びびびびっくりしたぁ!!”その焦り様がとても可愛かった。”ごめんね、驚かせてしまって” ズボンをパタパタと掃いながら、ちょっと驚いただけだよと口をとがらせる。地面に転がった枝を拾い持つと、また池の中をつつき始めた。
”オソメが…いないんだよ” おそめ? ”オソメって僕がつけた金魚が…昨日から見当たらないんだ” オソメ…とても古風な名前だった。”どんな金魚なの?一緒に探してあげるよ。”
”真っ黒の出目金…”
”まっくろ…なの?” 名前を聞いて鮮やかな魚を想像していた私は、実際の色とのギャップに笑みがこぼれてしまった。
”真っ黒で…すごく…デブ”
”大きいの?”
”ううん、デブ。” 康太君の口調が愛らしくて、笑いをこらえるのがやっとだった。”でも…かわいいんだよね?” すると彼は少し黙ってから ”うん”と頷いた。
”おねえちゃんは何処から来たの?” 池をつつきながら私に聞いた。”東京だよ” …じっと池を見つめたまま。”ここ、すっげー田舎でつまらないだろ” 私は首を振って”ものすごく素敵な所だと思うわ” と言った。”川上さんはつまらないって言ってる…” ”お友達?”首を縦に振って ”転校生。東京から来たんだ” そっか…”まだ、ここの魅力を知らないだけよ” 康太君はまた枝をぐるぐると回し始めるだけだった。
”和風さん!!皆でトランプしないかって教授が…” 振り返ると白沢さんがゴム草履を引っ掛け切らないまま、そっと引き戸に寄りかかるように手をかけてこっちを向いていた。シャツがふわりと風に乗る…と彼の前髪がさらりとそれに同調して流される。”白沢さん…”
この絵がとても柔らかかった。
彼を見つめる私を上目づかいで康太君がちらりと見ていたことは…私も知らない。