『蝉廻り』‐037
それは、玄関先にぽとっと落ちていた。
墨色がかった細い線が冷たく透き通る空気に洗われて、ふとその身を委ねてみようかと少しづつ色を手放してしまったかように褪せている。力を失い自らの身体を抱くように引き寄せられた六本の足が、ただ静かにそっと重なり合い 仰ぐ空に祈りを捧げる。最後の息で生きた証を守ったのだろう…粉色が散りばめられた身体を土色の薄いベールがそっと包み込んでいた。夢にまで見た大空を力尽きるまで飛び続けたそれは、どんな思いで最後の空を見上げたのだろうか。。。抜け殻となったその身体は、ただぽとっと落ちていた。
僕の目の前に蝉がぽとっと落ちている。力強く幹をよじ登ることも、風をとらえる事ももうしない…ただじっと、羽ばたきつくした空を見つめたまま 光をなくした黒い瞳には何が映っているというのだろうか。この蝉は短い時間で何処まで遠くに飛べたのだろう…。そっと蝉を持ち上げると、命の分だけその重さを失っていた。手のひらに乗せるとカサッと音を立てて転がり、もうここにはいないんだよとそう告げられている気分だった。”お前は何処に帰りたいんだ” そっと一人で呟く言葉に答えなど返ってこない。そっと木の根元に蝉を置いて指でそっと羽根を撫でた。水を失った木の根の様に這った模様がすっと木の根元に伸びていったそんな気がして、涙が勝手に流れていった。
黒靴など履きたくなかった。未だ玄関先に置いてある泥が跳ね散らされた靴…これからもずっと履きながら、彼女にカメラを向けていたかった。喪服に包まれた僕は目の前で横たわる蝉の瞳よりも深い漆黒色に包まれていた。
旅行から4日後…彼女は空へと旅立った。退院してから僅か十一日…蝉の様な時間を駆け足で、彼女は遥か遠くへと飛んで行ってしまった。あの山から見えた景色よりも更に…遠くへ。
彼女の心臓はギリギリだった。全くそうとは知らなかった僕が突然の知らせに愕然としていると、篠崎がそっと僕に全てを教えてくれた。仲間が憎かった…全てを知ったうえで微笑んでいた教授が頭に浮かぶ度に ”なんでだよ”と歯を食いしばった。
僕の手の中に溜まりかけていた水が、指の隙間からそっと零れ落ちた。
その水が、僕の中で何の意味を持つかのも掴めぬままに…。
晴れ渡った空の下、僕は彼女を送り出すために歩き出した。
斎場の中へ列を成して入って行く人達がまるで蟻の様だ。顔色一つ変えずにただ黙々と足を運ぶ。この中に飛び込む心の準備は出来ていない…立ち止まると、「今来た道を戻ればよい」と心の中で自分の中の誰かが囁いた。僕には向き合える自信がない…じりじりと少しずつ回り始める足が、少し後ろめたそうにしているのを見て、どっちつかずなこんな自分に嫌気がさした。そんな時、僕の肩にポンと暖かいものが置かれた。”白沢…” 優しく深みのある声は柏先生だった。”先…生。” 肩に置かれた先生の手にギュッと力がこもる。”わかちゃんを…笑顔で送り出してあげよう” …笑顔で…?今の僕に笑顔なれっていうのか? ”…僕には…できそうにありません。”ぎゅっと両手を握りしめた。”何もかも知った上で微笑んでいた教授も…皆も…僕には、どうしても理解出来ない…” 先生は寂しそうに微笑む。”まだ少し時間がある…少し座って行かないか?” 入口に続く道に置かれたベンチは、ガタガタと崩れ行く人たちの身をどれくらい支えてきたのか。。。そっと腰かけたベンチは心なしか暖かかった。
”旅行…楽しかったな。”
素直にはいと返事が出来ない僕は黙って膝の上の拳をじっと見つめるだけだった。
”白沢は…わかちゃんのどんな表情が浮かぶ?”
思い出そうとしなくとも目の前に彼女の笑った笑顔ばかりが次々と湧き出て、輝いているそんな彼女を直視できずに、僕はぎゅっと目を閉じた。
”俺には…わかちゃんの素敵な笑顔しか浮かばないんだよ。。。でも…その横にはね…必ず笑っている成瀬の姿がある。”
ふわっと目の前に浮かんだ彼女のその奥に焦点を合わせると、教授が笑う彼女を見て微笑む姿。この時も…あの時も…彼女の笑顔の後ろには、教授が笑って見つめていた。
”旅行中、成瀬の不安な顔を君は一度でも見たことがあるか?” 今振り返ると、何故?どうして?そう思うくらいに教授はいつも笑顔だった…ゆっくりと首を振る。
”いつ彼女の笑顔が消えてしまうかと不安に押し潰されそうになりながらも…あいつは一度たりとも不安を見せた事がないんだよ。多分それは、成瀬が彼女に思い切り最後の日々を笑って過ごしてもらいたかったからじゃないかと思うんだよ俺は。”
”泣くことは簡単なんだ…。思い切り不安だと泣き叫ぶだけだからな…そしてそれは時には心を軽くするもんだ。”
”でも…そうする事で、不安も恐怖も…そして新たな悲しみをも呼び込んでしまう事もある。あいつはそれだけは彼女に味合わせたく…無かったんじゃないのかって。”
柏先生はゆっくりと立ち上がると、優しく微笑んだ。
”俺は白沢に、わかちゃんの為に笑ってはくれないかと言っているんだよ。そりゃ…辛い事さ。でも…彼女の中にいた君はいつだって笑顔だったんじゃないのかい?俺たちの中で わかちゃんが笑顔でいると同じように。”
ハッとした。僕も…僕も心から何時の時だって笑っていた。溢れる笑顔の中で、僕も…笑っていたんだった。
”あいつは…成瀬は…わかちゃんの笑顔と同時に…僕達の笑顔をも守り通してくれたんだよ…自らの笑顔を持ってね。”
”今度は…成瀬の為に…そして多分今成瀬をそっと見守っているわかちゃんの為に、一緒に笑って彼女を送り出しに行ってはくれないかな。”
頬に伝わる涙が優しく風に流された。まるであの時和風さんに拭ってもらった僕の涙と同じように。。。優しく暖かく。
ベンチが「もういきなさい」…そう僕に告げるようにそっと温もりを下げてゆく。大きく深呼吸をして、僕は目の前に立つ柏先生を見上げて ”はい”と今の僕の精一杯を笑みに乗せてそう答えた。