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『蝉廻り』‐005


じっと窓を眺めていると、遠くからペタペタと早足で迫る足音が聞こえてくる。同時に時折ガシャンと冷たい鉄の重なる音が響き、ベッドサイドに置かれた時計に視線を移すと とっくにお昼を回っていた。”午後の検診か”。 生ぬるい風を受けて、うとうとと昼寝をしてしまったみたいだ。開けっ放しの部屋のドアの隅から覗く白いナース服。そこで一旦足音が止まり、病室の外に取り付けてあるファイル置きからガチャガチャと回診版を選んでいる音がする。今日は誰なのだろう。日替わりで来るナースはこの時間から「一日」としてシフトを回ることになっている。今朝いたナースは今頃夜勤明けの帰路につき、自宅のベッドに転がり込むのに一直線。。それとも何処かのカフェのテラスで優雅に遅めの昼食をとっている最中なのかもしれない…今の私にはどちらでも羨ましい。ここ数か月の間、自分の部屋にでさえ帰れていない。私が好きな柔らかめなベッドに、淡い黄色のかけ布団。そこにバサッとこの身を放り投げたい。グラデーションで明るいオレンジ色に変わっていく枕に顔を埋めて…。黄色は幸運を運ぶ色と言われて、おまじない代わりに買ってみたものだった。雨が降り続く日でも部屋はいつもホッとできる場所であります様にと。家に帰る日が来た時には、様々な黄系統色がつぎはぎされたパッチワークのベ ッドカバーをかぶせてみようかな…心地良さが、更に心の弾むような場所へと変わるかも知れない…。

   

 

   

 

”…かちゃん? わかちゃーーん??”自分を呼ぶ声にハッとして、見えた部屋の入口の隅には もうナース服はちらついてはいなかった。私の左側に不思議そうに覗き込む顔、村木さんだ 。”あ、ゆめさん” 。村木夢さんは私と同年齢の看護婦さんで、私の知るナースの中でも近く感じられる人だ。大学卒業後に大手企業に数年勤めるも、幼少時代からの看護師という夢と強い意志は消える事なく、この年で新米看護師となったそうだ。ボーっとしている私を見るなり、そのふっくらとした唇を突き出してぷぷっと笑い出した。少しウェーブかかった一筋の髪が彼女の頬にふわっと落ちて笑いと共に揺れている。少しばかり日を浴びたらしい肌は綺麗な砂色をして、唇からこぼれ見える笑顔に艶を与える。女らしく、可愛げで…。

”どーしたの?ぼーっとして?” 彼女はぐっ~と私の顔にその笑顔を近づけて言った...鼻と鼻が触れるくらいに…。いい香りがした。誰かが遠くで大切に抱え持つ花束の様なさりげなく、でも 確かに香る女性の優しい香り....。”ゆめさん。。。いい匂い” 。普段スゥーっと切れた上瞼が きょとんと上に上がり、一瞬時が止まったかのように思った。と同時に彼女はとがった唇を横にうーんと横に伸ばしながら、大きな笑顔で笑い出した。”もぉ、なーに わかちゃ ん!!何を言うのかと思ったら、いっきなりそこ?!?”  細めの綺麗な手で口を覆いながら馬鹿笑いしている。笑い涙をスッと人差し指の背で拭いながら真っすぐ私を見ている。”ちょっとぉ 、心配してたのに!まぁ、だからわかちゃんの所に来るのが楽しみなんだけどね”。えっ?そんなに可笑しなことだったのかな?綺麗でいい香りがして、夢に突き進む真っ白なナース服。女の自分でもドキッとしてしまうような彼女の一部一部が…彼女の全ての仕草が…自分には無いものを お芝居の舞台で見ているようで わくわくする…と同時に 胸がきゅっと苦しくなる。ぐるぐると渦を巻いた何かが自分の中で薄い雲を張る感じで、”いい匂い” そう言った自分の真意を覆い隠しているみたいだ。

毎日窓の外の大通りを通り過ぎる人達。毎日職場に通うサラリーマンに、学校に急ぐ学生た ち。肩を寄せ合い横断歩道を渡る恋人達に、買い物袋を片手に歩く主婦。砂場道具を持つ子供の手をしっかりと握りながら、ゆっくりと歩く家族。とぼとぼと本を読みながら歩く人に、化粧をしながらつかつかと道を急ぐ人。。。皆、私の見ているお芝居の舞台上。私はいつも同じこの席で、何も変わらないまま皆の舞台を見ているだけ…「それしか出来ない自分」という概念を押し殺すかのように、きゅっと唇を噛みしめて冷静さを取り戻す。


いつも通りにゆめさんはバイタルをとっていく。しゅぽしゅぽと血圧計に空気を入れる。締め付けられる左腕、シューーっという音でまた生き返るこの感覚が私は案外好きだったりもする 。

”ボーディーソープ…かな?”ぽつっとゆめさんが言った。”ほら、看護師ってメイクも最低限だし、ましてや香水なんて御法度じゃない?いい匂いって、多分ボディーソープかなぁーって思ってさ。” ちょっと斜め上に目をやりながら彼女は言った。いい匂い…あんなに馬鹿笑いしたのに…。少しくすぐったい感覚がして、くくっと笑いがこぼれた。”ちょぉーっとわかちゃ ん!なんでわらうのぉー!!” 今度はぷくぅーっと頬を膨らませている、かと思うと、私を見ながらはにかみ笑いに代わってゆく彼女を見て、かみしめた唇が緩んで柔らかな気持ちが流れた 。

 

   

 

   

 

もともと心臓が弱かった私は、昔から隅っこ見学な子供だった。幼い頃から走る事も、泳ぐ事も禁止されていた…それでも、毎日が楽しかった。様々な分野の本を大好きな大きな木の下に座りながら片っ端から読み漁り、色々な世界を垣間見たり。真っ白なキャンバスブックを自分色に染めていったりもした。こんな自分だからこそ費やせる物が沢山あった。自分なりの楽しみと共に、周りの皆と一緒に分け合う時間も沢山あった。まだ10代だった学生時代…他愛無い話に笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだり…悩んだり。必死で勉強したり、愚痴を言い合ったり。新しい化粧品を試したり、恋の行く末を占ってみたり…。今の私 にはただ窓の外を行き交う人たちの表情を眺めて、想いや感情、感覚を想像することしかできない。もう、私には掴めないものなのかも知れない?。入退院を繰り返して、結局大学も休学したまま歳月が流れ過ぎて行った。今年に入ってからは、自分でも知らぬふりができない程に発作の起こる間隔が短くなってきている。その度に毎回の入院期間が徐々に長くなってきていることにも…気づいている。それでも、今までずっと じっと時期を待つ事を繰り返してきた自分だから…そのうちきっとまた、行き交う人達の中に混じることが出来ると そう、信じている 。

網戸にふっと目をやると、そこにまだ蝉はいた。全く同じ場所にじっとして、その時を待 っていた。

”私と同じだね。” そう言って笑った自分の笑顔が、自分で見えない事に こんなにも救われたことはなかった…。自分でも分かっている…自分の中の何処かにあるこの気持ちが。 本当は蝉を無理やりにでも飛ばせたい。細く、でも強くしがみついたその足をポンと叩いてしまいたい衝動。この冷えた壁に囲まれただけの自分に対する焦りと不安。それが日に日に大きくなっている事を無視できなくなっている自分にも…。

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