『蝉廻り』‐013
何だか照れ臭いような嬉しいような…そんな気分だった。ほんの数分の間に私の中で色々な感情が走り回なんて どれ位ぶりだったろう。階段の上り下りや走ることよりも、遥かに私の鼓動は速度を増して響いていた。何年分の笑いをさっきの数分で経験したかのようで、 走馬灯というものを垣間見た気にもなってしまう。私の心臓を落ち着かせるために、大きく一息ついてみるが、どうも落ち着き方を忘れてしまっているようだった。 ”白沢 誠司さん”雲のような人だったな。静寂にただ身を任せている秋雲かと思うと、ぽっかりと口を開けて形を変えて ポッコリと膨らんだ夏雲になったり。透き通る薄いベールの様な雲に見えたり、慌てている様は真っ赤な色に染まった夕焼け雲だったり。真夏の空の様な篠崎さんに振り回されている様子は可笑しくも楽しくもあった。でも…初めてドアの境で彼を見た瞬間…あれは息が止まるような 昨日の夕暮れの空を前にしたのと同じ感覚だった。少しばかり平均より背が高い私でも見上げなければならなかった彼…背が高いんだ…。小柄な可愛らしい女性が隣で笑っているとよく似合いそうだな…そう考えた途端、私の心臓が高鳴るのをやめた。もう少し私に華があったらな…せつない笑みがこぼれた。
コツッ。ここまでどうやってたどり着いたのか覚えていない。様々な事を頭の中で回想し、気づいた時には父のオフィスの前に立っていた。研究室とは違い、丁寧に磨かれた木目の床が私の靴でコツンと鳴る。その音は天井高くまで届き、そしてまた私の元に振り降りて来た。水面のように広がる音はゆっくりと私を回想世界から引き上げてくれた。少し開かれたドアをトントンと叩くと、”どうぞ。”父の声が聞こえた。父は本棚の前で沢山の本を積み上げ、その中心で胡坐をかいていた。”おぉ、和風。無事退院できたか。”丸眼鏡をちょこんと鼻の上に持ち上げながら優しく笑ってそう言った。”うん。無事退院いたしました。”ふふっと笑いながら大げさにお辞儀をして見せると、そうかそうかと呟きながら腰を上げ、本の塔を崩さぬように大きく足をあげながら私の前に立った。”退院おめでとう” 両手を私の肩に乗せてグッと私をのぞき込む。父の眼鏡を通して見る世界は水晶玉の世界…父の眉毛がフレームの隅で大きく拡大されて見える。そして目の周りにある皺を思い切り深くしながら父は柔らかな笑みを浮かべた。”ありがとう お父さん。” 父は積みあがった本をゆっくりと振り返るとフッと笑う。”読み入ってしまうと全く片付かない。…和風、珈琲でも飲みに行かないか?”コクリと頷き、折角だから美味しいのを飲みに行こうと父の腕に自分の腕を絡めると、父はまたフッと微笑んだ。
父と一緒に歩く外の世界はまた一段と輝いて見えた。まるで恋人同士の様に父が私に歩合いを合わせて歩いてくれる。肩を並べる…こんなにも嬉しい事だっただなんて。いつもベッドの上で父を真正面から見ていた私が、今父の横顔を見れること…左目の下の三角形を描く3つのほくろ達、眼鏡の厚さに 父の姿勢…なんだかとてもホッとした。今朝のゆめさんからの贈り物の話や、ソルベの話…沢山沢山父に話した。途中、道端を横切る猫に立ち止まったり、ショーウィンドウを二人で覗いたり。”和風、疲かれてないかい?” ふと私の方を見る父はゆっくりと聞いた。”ううん、大丈夫。” ”あそこの角を曲がると見えてくるからもう少しだ。” 小さなパン屋のある角を曲がり、たどり着いたのはまだ真新しい【Mona】というカフェだった。”ここは多分和風も好きだと思うんだ。”そう言って父が戸を引いた…。濃いカフェ色に染まった杉の木の内装、戸を開けるとそこには沢山の雑貨が溢れていた。プレースマットに食器の数々…少し丸が歪んだモダンなスプーンに細めのバターナイフ。少し控えめな赤色のワインタグに心が躍る。”こっちだよ” 父は素敵な物達に釘付けな私の肩をトンと叩くと、店の奥へと進んでいった。深く甘い香りがふわっと鼻の先をかすめると、右にあるカウンターの向こうでコポコポとカップに落ちる珈琲の雫。”もう、このお店の珈琲好きになった。”そういうと父は私をチラッと振り返り、”いや…ここからが多分和風も好きだと思う見せどころなのさ。” 父は私へとゆっくり身体を向けると、見てごらんと言うかのようにその視線を右側へ飛ばした。
”わぁ…” 目の前に広がったのは【外の世界】。大きく開かれたスペースに幾つものテーブルが並んでいて、あちらこちらに緑が置かれている。高い天井からは様々な蔦が這い、吊り下げられたランプからも植物がチラッと顔を出す。壁を覆いつくす煉瓦にはエアプラントが埋め込まれ、ちょっとずれて飛び出た物には多肉植物がちょこんと乗っている。そこをまた一段下がった所にある一面のガラスドアは大きく開かれていて、カフェの中にフェンスで囲まれた外の空間があった。幾つもの椅子が大きくそびえ立つ大木を囲み、様々な植物が木陰を作っている。”カフェの中に…自然がある…。”父は呆然とする私の顔を見て少し満足げに ”いいだろう”と呟き、テラスにある椅子に座ろうと歩き出した。線の細めの椅子には肘掛けが伸びていて、背もたれはカーブを描く優しい形で私を受け止めてくれた。”なんだか…大自然の中にいる気分。” 大きな木を見上げながら次第にこの空間へとなじんで行く自分の中にモコモコと湧き上がる感情…感動とそして吹き寄せる心の奥からの懐かしさ。”お父さん、このカフェすごく素敵!” ”だろう?ここへ来た時に絶対に和風を連れてこようと思ったんだ。絶対に和風も好きだと思ってね。”…何故だろう…心がチクッとした。父はマウンテンブレンドを二つ頼み背もたれに寄りかかり、木の葉の合間から空を見上げた。”同じ空なのにな、なんだかここだと落ち着くんだよ。” ふと私も空に目をやる。病室の窓から見上げていた空と全く同じ空なのに…今の私の頭上だけ次元が違うようなそんな気がした。”多分…緑に囲まれているから…なのかな…。” あぁ。。。そっか。さっき感じた心に感じた物はそれだったんだ。。。”お母さん「も」…好きだったよね…絶対。” 私の問いかけに耽るように父は真っすぐに空を見上げながら あぁとだけ答えた。そのまま二人でじっと揺れる空を見つめていた。
母は私が中学の時に交通事故でこの世を去った。夜通しで車を走らせていた男性が一瞬瞼を閉じてしまった…その一瞬で、母の命は空高く登って行ったのだった。泣きじゃくる幼い私を抱きしめ、父がそっと呟いた言葉は「大丈夫…必ずまた出会うさ」。。。そう言って、父は私の肩で泣いていた。お母さんはもういない…そう叫ぶ私を強く強く抱き寄せて…二人で泣いた。父のあの言葉は私に向けたのではなく、母への言葉だったに違いない…大人になってやっとその答えにたどり着いた。母はとにかく植物が好きだった。家中に様々な植物を置いては鼻歌を歌いながら水をやり、時には会話をしているかのように話しかける。父はそんな母の横で空を見上げて笑っていた。この空間の懐かしさ…それは紛れもなく母の元に合った。
珈琲は喉を通る一滴一滴が愛おしいほどに美味しかった。喉をくすぐる苦みが…何となく この空間にいる私達の気持ちにそっと寄り添っていた気がする。
父は帰宅する前に私の荷物を病院へ取りに行くとそう言って いつもの穏やかな笑顔で手をかざし大学へと戻って行った。”大丈夫だな?”しっかりと私を見つめた父に、私も笑顔で頷いた。”大丈夫。” 家のドアにカギを差し込むと、ふと柏先生の言葉が頭をよぎった…「ごちゃごちゃだったら、ごめんね」…家の鍵を開けるのに少しドキドキしていたけれど、開けた途端にいつもの家の香りが外に飛び出す。誰もいない家の中に向かって、大きな声で ”ただいま”と口にした。