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『蝉廻り』‐024


その後の父は 普段通りに戻っていた。”ここが「天の浮橋」だよ” ニコッと笑う父だったが、私の中でどうしても白沢さんを見つめた父の表情が頭にこびり付いて離れないでいる。父は私に何でも話してくれる…どんな表情も見せてくれる…でも、あんな表情は 今まで一度も見たことがなかった。「風が笑ってる」白沢さんはそう言った。大地でも、空でもなく…風が笑っていると。それを聞く前の父はどんな表情をしていたの?目の前に広がった光景に私は父の事を何も覚えていなかった。父がどうしても私を連れてきたかった場所…ここに何があるのだろう。頭の中でぐるぐると想いが行き交う…”お父さん、みんな ごめんなさい。私少し疲れちゃって…登山巡りは後にして、先にご飯を食べに行ってもいいかしら。” そう言うと、タイミングが良いのか悪いのか…私の腕時計がぴぴっと鳴った。”あっ、すまない和風。皆には申し訳ないが、昼食所にこのまま向かっても良いかな”。全員が笑顔で頷いてくれた。”すまないが、少し和風をここに座らせて、落ち着いたら二人でそちらに向かうから先に行っていてくれ” 心配そうな顔つきの皆だったが、私が笑ってコクっと頷くと ”無理はしないでね” 篠崎さんが声をかけてくれ、4人はコマ望台へと向かっていった。





”ごめんな和風…心拍数上がっちゃったか。。。” 時計をちらりと見ると、そこまで高いというわけでもなかった。でも もし一気に上がってしまったら発作は確実に私に襲い掛かる。”大丈夫。でも、ちょっと座って息を整えるわ”。息が上がったわけではなかった…父の涙の真相がとてつもなく気になってしまったのだと思う。景色が見える場所にゆっくりと腰を下ろして大きく深呼吸する。父は隣で丸眼鏡を空に向け ぼーっと過行く雲を目で追っていた。

何も口にせず、ただじっと…ゆっくりと呼吸する。





”この場所な…” 
父がゆっくりと口を開いた。”和風が生まれる前にお母さんと一緒に来た場所なんだよ。” 私が…生まれる前? ”この女体山に登って、さっき立ち寄った展望台から二人で同じように絶景に心を奪われてな…” 父は頭を戻しながら体を起こし、ゆっくりと両腕を膝の上に乗せて両手を握りしめた。まっすぐ前を向いたまま…何処か遠くを見つめながら…。”お父さんは空に手が届くような感じがしてね…空を思いっきり引っ張りたい気持ちになったよ。” 思い出しながらふふっと笑う。


父は目を閉じてゆっくりと息を吸った。 ”そうしたらお母さんが隣で言ったんだ…”





”「碧さん!!風が…笑っている」…と。”



”お父さんも和風たちと同じように お母さんの言葉に笑ったよ。でも、お母さんは とても嬉しそうに笑っていてね。あの時のお母さんの笑顔はこの世のものとは思えない程に素敵だったんだ。”





”その後すぐにお母さんの口から出た言葉が…


和風わか」だ。”




”この場所で…お母さんが和風を身ごもっている事を教えてくれて、この場所で…和風の名前がつけられたんだ。わか…「なごみの風」と書いて、和風だ。お母さんが最高の笑顔でつけてくれた名前だ…。”




気付くと私の視界は何も見えない程に歪んでいた。眩暈めまいでも霧でもない…私の瞳が涙の海に溺れていた。その海は溢れだして、次から次へと私の固く握りしめられた両手へと落ちてゆく。



”さっき…白沢君がお母さんと同じ言葉を口にした時に どうしようもなく抑えきれなくなってしまった。彼は本当に不思議な青年だよ…幾度となく、お母さんの姿と重なって お父さんに形有る言葉を届けてくれる…。”




ひっくひっくと音を立てて泣きじゃくる私は、両手で必死に涙を拭っていた。拭っても拭っても、拭いきれない程の涙に 太陽の光が反射していた。





”和風…” お父さんは涙で冷え切った私の両手をそっと掴んだ。



”もし生まれ変わるとしたら…”

”その時には、またお父さんとお母さんの子供として 生まれてきてはくれないだろうか?”





父の柔らかな瞳が水中を泳いでいる様に見える中、私はグッと父の手を握り返し


”はい。。。”と精一杯答えた。





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