『蝉廻り』‐014
トイレの洗面台の水を流しながら鏡に映る自分を見つめた。引き締まりがない顔になっている。おまけに耳が赤い。うわーー…正直、自分自身が信じられない。こんな変な顔を彼女の前でしていたのか僕は。いい年して、先生の問いかけに答えられなかった小学生の様な顔をしている。しばらく蛇口から流れ出る水を眺めて鏡から目をそらしてみる。今 僕の思考回路は迷路のようになって、この瞬間に「どこに何を思うのか」さえ分からなくなっていた。
彼女は素敵だった。息を飲むほどに。でも、光を受けて透き通る…今にも儚く消えてしまいそうでもあるあの感覚は一体何なのだろう?昨日見たベールの様な蝉の羽根がふわりと脳裏を流れていく。それでも彼女の微笑む姿はくっきりと僕の中に輪郭を残していた。がむしゃらに袖をまくり上げ、僕は冷たい水を何度も何度も自分の顔に掛け続けた。
研究室に戻ると三井がぐったりと椅子にもたれかかっていた。僕の姿を見つけるなり、”白沢さ~ん…今日に限ってなんで遅いんっすか…。”フルマラソンに参加させられた子犬のような目で恨めしそうに僕を見つめる。こいつの苦労は痛いほど分かる。”三井ってほんとに使い物にならないんだから!!” そうだよな…そう来るよな。でも僕がいた所でこの状況はぐったり子犬が2匹に増えているだけだっただろう…そう心底思う。”でもまぁ、白沢の可愛らしい反応見れたしぃ…” にんまりと僕を見つめる篠崎。お前こそ、洗面台で顔を洗ってこいと言いたくなる。”でも…教授にあんなにきれいな娘さんいたんだね…” そんな篠崎のぽろっとこぼした思想は僕の頭にもすんなりと入ってきた。篠崎はガツガツときつい言葉を飛ばす奴ではあるが、人の良い所もちゃんと認められる奴である…だからどんなにカチンと来ても憎めない。和風さんを「綺麗だ」と認めるところ…女性の中で妬みなしで素直に認められる人はそこそこいないと僕は思っている。”え?!わかさん来てたんですか?!?” 声を張り出したのは三井だった。”あん?三井 教授の娘さんの事知ってるの?”篠崎もちょっと驚いたように聞いた。”あ゛…えっと。” 口ごもる三井にグンと近づいて”あーー??”と篠崎が圧力をかけると深いため息をつきながら ”一度…何か月前だったかな。教授と話している時に娘さんが倒れたって緊急連絡が入って、血相変えて教授が飛び出していった事があって…。後で教授のバッグを届けに病院へ行った時に…一度わかさんにお会いしたことが…あるんですよ。。。” え? ”三井それを黙って抜け駆けしようと思ってたわけだぁ…。” ”ち、ちがいますよ!!ただ…わかさん心臓が生まれつき弱いみたいで…。多分ここんところずっと入院していたはずだから…退院したのかなって。。。” 僕も篠崎も反応のしようがなかったが、少し間をおいて ”そ、そうなんだ…。あっ でも、さっきは何だか楽しそうに沢山笑ってたよ!” 篠崎の言葉に救われた。”元気そうだったよ。僕がぽけーっとしている姿見て笑われたし。多分退院したんじゃないのかな。” そういうと良かったとホッとした表情で三井はまたぐったりと机に伏せてしまった。…だから少し儚さがあったのか?…それでも僕の頭に浮かぶのは クスクスと楽しそうに笑う彼女の姿。退院出来たんだ きっと。。。何故か自分にそう思い込ませるかのように、彼女の儚さに理由を付けた。
”さて!!今日は午前中は私達三人だけだから、さっさとデータ処理しちゃおうか!!” 三井がグイっと頭を持ち上げ助けを求めるような目で僕に視線を送っていた。
”頑張っているかい?”少しすると成瀬教授がひょっこり研究室にやってきた。”はーい!!”いや、張り切っているのはそう言った篠崎のみで、僕と三井は篠崎のいつもの止まらない話に嫌気がさして頑張るどころでは無かった。それを察したのか、教授はクスリと笑って三井の肩にポンと手を乗せた。”君たちは今週末は忙しいかな?”僕達が揃って教授に疑問の視線を向けると、一気に集まった視線に はたまた教授は笑みを浮かべる。あっ…同じだ。和風さんと同じ…。教授の立つ位置に重なり、今朝の和風さんの影が浮かぶ。教授は今日和風さんが退院したこと、そして今週末、彼女を含めたこのメンバーでちょっと足を延ばして登山をしないかと誘ってきたのだった。”い、、、行きます!!” 右手を高く挙げながら三井がガタっと椅子から立ち上がると、”ったく、小学生でもあるまいし挙手しなくっても…下心丸見え!”篠崎の呆れ顔に、三井の方が自分より一瞬早かったのが幸いだったと胸を撫で下ろす僕がいた。”三井君は和風の事を知っているね。そして篠崎君と白沢君に会ったと和風が教えてくれてね。和風の…退院祝いで、連れていきたいところがあるんだ。一緒に行ってくれないか?” あれ…何だろう、またこの感覚。僕には一瞬教授の声が揺らいだような気した。優しくゆっくりと教授は続けた。”和風は…生まれつき身体が弱くて、今回は少し長めの入院だったから外の空気を一杯吸わせてやりたいんだ。” こうして僕達三人の週末の予定が埋まった。
週末まで…後4日。帰宅早々、気付けばバックパックを押し入れから取り出していた。「下心丸見え!!」篠崎の声が頭の中で響き渡る。サーモスとタオルと…色々とリストを書き出し物を引っ張り出すと、後ろでガラッと引き戸が開いた。”何やってんの?”風呂から上がったまんまタオル一枚腰に巻いて健司が立っていた。”おっ、お前服着てから入れよ!”なんだか自分の頭の中に響く下心という言葉を見られたようで、やけに焦ってしまった。”なに恥ずかしがってんだよ誠司…”ぽかんとしながら床に散らばった物に目を移し、”なに?家出?”弟ながらに呆れた…焦りが一気に引いてゆく。”登山だよ登山!!” きょとんとしながら突っ立っているかと思うと、突然大声上げて笑い出し、”あははは、誠司…息切れるんじゃね?”と腹を抱えだした健司にムッと来て、引き戸をバチンと閉めてやった。扉の向こうで健司はずっと笑っている。”ったく頭にくる奴だ。”勝手に想像膨らましやがって…。腹を立てながら身近にあったものをバックパックの中に無理やり詰め込んでいると健司の放った言葉にふと疑問を抱いた。あれ…何かが…おかしい。健司のバカな発想は決して的外れではなかった。僕が根をあげるか否かではなく息が切れるかという事だった。登山は確かに聞こえよりも体力が必要だ。退院したばかりの彼女を何故 登山に連れてゆくのだろうか?教授は身体が弱いとだけ言っていたが、三井は心臓が弱いと言っていたはず…つじつまが合わない。しかしながら、教授はいつも先を読んでいて、それでいて答えを教えたり押し付けるような事は決してしない人だ。登山と言えど、なにかしらちゃんとした考えがあるに違いない。頭を過ぎった違和感は後味を残さずに消えていった。”冗談だよ誠司!冗談!!”引き戸を再び開け、シャツを着た健司が頭をタオルでぐしゃぐしゃにかき回しながら入ってきた。”んで…どこの山登るの?” ”あっ…” そういえば…一体どこに行くんだ僕らは?