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『蝉廻り』‐018


母の箪笥たんすは埃一つなく凛とそこに置かれていた。けやきの木目が上品で繊細な印象を部屋全体に与えている。母が亡くなってからも、父はこの桐箪笥をずっと大事にしていた。着物が入っているわけではなかったが、母が父の元に嫁いだ時に私の曾祖母が母に譲ったもので、母はこの箪笥の香りが好きだと良く言っていたのを思い出す。ゆっくりと母の箪笥を開けると抵抗なく引き出された。どうぞと何かを差し出されるような、贈り物を受け取る時の感覚に少し似ている。母の洋服は丁寧に畳まれ、母がこの世を去った時のままだ。止まったままの時間が此処に詰め込まれていた。淡いピンクのカーディガン…二人であんみつを食べに行った。ロゴの入ったシャツ…公園でカエルを見つけたね。黄色の丸首…これで一緒にクッキーを焼いて焦がして笑った。。。目に映る洋服の全てに思い出が詰まっている。見るのが辛いわけじゃない…でも思い出達が逃げていかない様に…私が思い出しすぎないように、そっと戸を閉めた。一番下の戸を引くと、クルクルと巻かれたズボンが入っていた。動きやすいからと、小さくなった私の中学時のジャージズボンを鉢植え替えや庭仕事の時に母は良く履いていた。その奇抜な緑もそこにくるっと丸められている。父が帰宅するまでにはきちんと着替えていたりして、私だけが母のそんなお茶目な一面を見る事が出来た。座ってぽつんと見ているだけ…あんなに嫌だった体育のジャージを、母はこんなにも素敵な思い出に代えてくれた。一つ一つ見てゆくと、右奥にグレーのパンツが四角く畳んであった。多分父の言っていたズボンかな。”これかな” 手に取ると、ズボンの下でカタッと何かが鳴った。ん?なんだろう?空いた空間に傾き雪崩れ込んだ他のズボンを避けながらそこに手を入れると、縁どられた四角いフレームが出てきた。中には何種類かの押し花が飾られている。いつも家に飾られていたものではなかったが、私の記憶の何処かでこのフレームを目にした時があった。思い出そうとしても、いつ目にしたのか全く思い出せなかった。切り花をあまり好まない母が大事に押し花にしたのならば…これは母にとってかけがえのない物だったに違いない。縁をそっと撫で、あった場所にそっと戻すとハイキングパンツを手にそっと母の箪笥に背を向けた。






”和風、明後日の用意はもう出来たか?” 夕食後に父が珈琲を飲みながら聞いた。父は寝る前に珈琲を飲んでも眠気に支障が出ない人だ。夕食後の珈琲には少し砂糖を加えていつも飲んでいる。”お母さんのズボン…見つかったんだけど、小さかった。。。” 当時の母は私よりもほんの少し小柄だった。今の私だったら母は私を見上げているだろう。そうか…そう言ってふっと笑った父の目には、多分幼い私と並んで立つ母の姿があったのだと 何となくそう思った。母は変わらずそこに居て、私だけが時を刻んでいた。”じゃあ、明日にでも買いに行くか” 初めてのハイキングパンツ…それは私にとって、大舞台に立つバレリーナの衣装程に胸が弾む物だった。


結局買い物に出ると、ハイキングパンツの他にも パーカーだ運動靴だと様々なものが必要だと、父は奮発して揃えてくれた。”おとうさん、こんなに揃えても 私にはいつも使えるものじゃないのに…” そういうと、嬉しそうに買い物袋を提げた両手を持ち上げて いいじゃないか と笑って見せた。帰り際、通り過ぎた空き地の一角にコスモスの花が蕾をつけていた。はちきれんばかりに花咲く時を待っている。”お父さん、明日登る山にも沢山花が咲いているかしら?” 父は少し考えながら、”お母さんと行った時にはカタクリの花があちこちに咲いていたな。。。” 父と母が一緒に登った山…。そんな思い出の場所に私を連れて行ってくれるんだ。”ん…でもあれは3月頃だったかな。比較的暖かな日が続いていてね。今の時期に花が咲いているかはお父さんには分からないけれど、紅葉は少し始まっているといいな” 遠くを見つめながらそういった父…どうか葉が色づき始めています様にと心の中で小さく祈った。




父が明日の天気を研究所で調べてきてくれてはいたが、寒がりな私はもう一枚余分に羽織物を持ってゆく事にした。初めての山…途中でリタイヤだけはしたくない。不安はもちろんあった。病院から渡された長いリストの中に当てはまってしまう物がいくつか考えられたから。これまで無理はせずにゆったりと過ごしてきた私が、果たして何処まで行けるのか…。考えるだけで身体が固まってしまう自分がいないと言ったら嘘になる。それでも、笑って大丈夫だと言ってくれた父がいる…大丈夫。父の言葉には、自分の気持ちよりも自信が持てた。

鏡の前で自分をのぞき込む。”大丈夫。沢山楽しもう” 自分に向かって語り掛けると、白沢さんとクスクスと笑いあった優しい瞬間が蘇り ”うん。大丈夫” 今度は確信をもって呟いて、両手で頬をギュッと押さえつけた。 




待ち遠しかった土曜がやってきた。朝からバタバタと物音がする…登りたての朝日をチラッと横目で確認すると、右手に蒔いた時計を翳す。ぴっぴっぴと刻む心拍数はいつもよりゆっくりと数字を刻んでいる。うん…ゆっくり眠れた。つま先をゆっくりと伸ばし、朝ですよ と少しづつ体を起こしてゆく。

昨日父に買ってもらったハイキングパンツに足を通すと、気持ちが少しだけしゃきっとした気がした。”これが気合ってやつですね”…一人で呟いて一人で笑う。右手をそっと左胸に置いて、ゆっくりと深呼吸をすると、とくっと胸が浮き上がった。



台所に行くと、テーブルの上に父の丸眼鏡がカタッと置いてある。ふと視線を居間に移すと、父が真剣な顔で何かとにらめっこをしていた。”お父さん?”声をかけても手に持った物を真剣に見つめながら ”和風…おはよう…”とこっちを見向きもしない。よく見ると父の手に握られているものは針だった。父の横には裁縫箱が置いてある。”和風…起きがけに悪いんだが…” やっと私を見て手元を下げた。”針に糸を通しては…くれないか?” 自分でも呆れてしまったのか、父は困り笑顔でそう言った。



窓から差し込む光が、父を後ろから照らし出す。
その少し困った父の笑顔…眼鏡を通さずに見る父の微笑み。
そんな父が「父」ではなく、一人の男性…「成瀬 碧」として私の瞳に写っていた。

母が心から愛した人が、私の目に初めて飛び込んできた…
そんな気がした。



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